詩人のまどみちお(1909-2014)。
まどみちおの名前は知らなくても、「ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね」と聞けば、「あぁ」と、だれもが反応する。
まどみちおの大ファンである心理学者・心理療法家の河合隼雄が、「魔法のまど」というエッセイのなかで、まどみちおと彼の詩について、おもしろいことを書いている。
…まどさんの名前を知らないままに、まどさんの歌を口ずさんでいる人はたくさんいるだろう。まどさんは、それでいいのです、と言われるに違いない。まどさんにとっては、まどさんのうたっている、ぞうやありやコスモスなどの姿を、皆が見てくれるといいのであって、まどさんは文字どおり、それを見る「窓」になって、見る人の意識から消えてしまっていいと思っておられるだろう。それは、ほんとうに「魔法のまど」なのである。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
まどさんが「窓」になって、見る人の意識から消える。
「魔法のまど」とは、ユーモア感あふれる河合隼雄を感じさせるけれど、見る人の意識から消える「窓」となる詩とその世界は、とても大切なことを伝えてくれてもいる。
そして、この地点から、河合隼雄の文章はいっきに、ぼくたちを深いところにつれていくことになる。
…井筒俊彦先生が次のようなことを書いておられた。われわれは通常は自と他とか、人間とぞうとか、ともかく区別することを大切にしている。しかし、意識をずうっと深めてゆくと、それらの境界がだんだんと弱くなり融合してゆく。そして、一番底までゆけば「存在」としか呼びようのないような状態になる。そのような「存在」が、通常の世界には、花とか石とか、はっきりしたものとして顕現している。従って、われわれは「花が存在している」と言うが、ほんとうは「存在が花している」と言うべきである、というのである。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
「存在が花している」という反転は、ぼくたちの意識から見たら逆さだけれど、量子力学/物理学なども教えるように、この世界の粒子と波から見たら、普通である。
河合隼雄は「存在が花している」という表現を大好きだと言っているけれど、そう言ったあとで、河合隼雄は、まどみちおの詩の本質にわけいっていく。
…まどさんの詩を読んでいるとその感じが、ぴたっとわかるときがある。まどさんの詩に出てくる、花や石や、そうやのみなどに会うと、「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」とあいさつしたくなってくるような気がするのである。根っ子でつながっている感じが実感されるのである。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
思想家でもある井筒俊彦のいう「存在が花している」という哲学的な言葉を、「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」という、滑稽ささえ感じさせる言い回しに展開してゆくところは、「根っ子でつながっている感じ」をほんとうに生きている河合隼雄を感じさせる。
そして、<子ども>たちは、「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」という「根っ子でつながっている感じ」の世界の住人である。
「存在が花している」ということを知らないままに、ただ自然と、例えば花たちに向かって「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」と、話しかけるのである。
それにしても、「私は私である(私が私をやっている)」ではなく、「みんなが<私>をやってくれている」という反転の視点と同じように、河合隼雄のこの反転の視点は、ぼくたちの「わたくしといふ現象」(宮沢賢治)の本質を軸とした反転の視点である。