旅、その「前」「途中」「後」を楽しむ。- 旅の途中で、「途方に暮れる」とき。 / by Jun Nakajima

旅は、旅の「前」から、その楽しみがはじまる。

目的地を立てながらルートをかんがえたり、あるいは「少し先の楽しみ」に照らされて生きていく(黒川伊保子)ことだってできる。

 

そんなふうに楽しみにしていた旅は、やがて、はじまる。

楽しみにしていた旅がひらいていく過程に、ときに、ふしぎな感覚をおぼえたりする。

予定・計画していた場所に行き、食べ、見て、体験する。

世界が新鮮に開示してくる。

写真や動画で見ていた世界に身体をさらしてみると、違った世界が、五感を通じて感じられる。

そんなふうにして感じた世界が、じぶんのなかに「地図」として、はいってくる。

 

旅は一人旅もあれば、二人旅もある。

それなりの人数で行く旅もあるけれど、旅は、やはり、「途方に暮れる」というところから、旅らしくなってくる。

予定や計画が、旅のなかで、立ち行かなくなってしまう。

<じぶんがかんがえていたこと・予測していたこと>が、現実の旅のなかで行き詰まり、その状況において、<じぶんが超えられながら超える>という体験がおきてくる。

創る旅が、「創られながら創る旅」へとひらかれ、じぶんが超えられてゆく。

 

ぼくが、今住んでいる香港に、旅としてはじめて来た1995年。

宿も何も決めない行き当たりばったりの旅(そんな旅をしてみたかった)。

空港からバスにとびのって街で降りたのはいいけれど、目指していた場所にも着けず、バックパックを背負って深夜の香港の街で途方に暮れる。

そんな「途方に暮れる」ところから、旅ははじまる。

じぶんが乗り越えられていく。

 

社会学者の真木悠介は、「ほんとうの創造」という体験を、フランスの思想家バタイユにヒントを得ている。

 

…創造するということは、「超えられながら超えるという精神の運動なんだ」と。つまり、ほんとうの創造ということは、創るということよりまえに、創られながら創ることだと。…ぼくらは、近代的な芸術を批判するものとして、バタイユを読み返すことができると思う。近代的な芸術というのは、個性の表現とか主体の表現ということがあって、…バタイユは、そういうのは、いわば貧しい創造に過ぎないのであって、ほんとうの創造は、自分自身が創られるという体験から出てくるのがほんとうの創造なんだということを、半分、無意識に言っていると思うんです。

真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること』(太郎次郎社)

 

真木悠介は、このあとのところで、自身のインドの旅の経験、まさに「途方に暮れる」旅の経験を語っている。

芸術にかぎらず、この「創られながら創る」ということは、ほんとうの創造が現出するときのエッセンスであるように、ぼくは思う。

あるいは、生きるということそれ自体が「芸術(アート)」であり、個性の表現とか主体の表現という一方向性の生き方を、「超えられながら」超えるところに、<生きることの芸術>がひらかれていくのだとも、いうことができる。

 

「超えられながら超える」旅、あるいは「創られながら創る」旅は、その旅の途上において、快適ではない。

「途方に暮れる」とは、どうしてよいかわからなくなる経験であり、道に迷うことだ。

ただし、そのような旅は、その先に、思ってもみなかった宝物をぼくたちに与えてくれる。

だから、じぶんと他者と世界を信じて、旅の途上の一歩一歩を、楽しみながら、歩くだけである。

Posted in