旅は、旅の「前」に、はじまる。
旅は、途上で、例えば<途方に暮れる>経験を軸に、その先におもわぬ宝物の箱をひらいてみせてくれる。
そして、旅は、やがて、おわる。
でも、旅はおわっても、旅の情景は記憶として、また<じぶんの地図>として、じぶんのなかで新たな場所を得ることになる。
小説家の村上春樹が書く極上のエッセイをまとめた本に、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)がある。
「ウィスキー」を中心テーマに、スコットランドのアイラ島、それからアイルランドと、ウィスキーの聖地巡礼の旅を、村上陽子の素敵な写真とともにエッセイとして綴られた、素敵な本だ。
「あとがき」で、村上春樹は、東京のバーでシングルモルトを飲むとき、そこに、アイラ島の風景がわかちがたく結びついていることを書いている。
アイリッシュ・ウィスキーも、同じように、アイルランドの風景に結びついている。
…どこかでジェイムソンやタラモア・デューを口にするたびに、アイルランドの小さな待ちで入ったいろんなパブのことを思い出す。そこにあった親密な空気と、人々の顔が頭の中によみがえってくる。そして僕の手の中で、ウィスキーは静かに微笑みはじめる。
旅行というのはいいものだなと、そういうときにあらためて思う。人の心の中にしか残らないもの、だからこそ何よりも貴重なものを、旅は僕らに与えてくれる。そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。もしそうでなかったら、いったい誰が旅行なんかするだろう?
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
村上春樹は、「人の心の中にしか残らないもの」を与えてくれる旅に、「旅はいいものだな」と感じる。
「いいものだな」とは、効用や効果やメリットということを超えた、生きていること自体の歓びのような感慨である。
そして、「そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるもの」と、村上春樹は、付け加えている。
旅の途上ではなく、旅の「後」で、ぼくたちは気づくことになる。
だから、旅の「後」を楽しむとは、ただそのときの思い出を楽しむということではなく、気づかなかったことの思い出を、今の時間のなかで楽しむことでもある。
そして、その「後」は、まったく思ってもみないほど「後」に、やってくることがある。
10年や20年という後にやってくることだってある。
今住んでいる、ここ香港の街を歩きながら、1995年に香港に初めて来たときの「あの旅」が、20年以上のときを超えて、ぼくの今の心象風景に、ふと、やってきたりする。
そんなときに、旅はいいものだなと、ぼくは思う。