登山家の栗城史多が目指した世界。- 「あ、あなたも出る杭ですか」(栗城史多)と、「出る杭」の祝福される社会に向けて登る山。 / by Jun Nakajima

登山家の栗城史多が、エベレストでの下山途中に、帰らぬ人となった。

「目を疑う」とはこういうことかと思い知らされるほど、ニュースの見出しを見ながら、ぼくはじぶんの目を疑った。

一部だけの報道であったのが、時間が経過していくなかで、ここ香港の各メディアやBBCなどのニュースでも報じられるようになっていく。

そして、その事実をうけいれながら、ぼくの心のどこかに、やはり穴があいてしまったように感じることになる。

 

このニュースを知る前日の夜のこと、ぼくは、なぜか、写真家であった星野道夫について、本を読みたくなる。

ドキュメンタリー映画『地球交響曲』の龍村仁が、その「第三番」の制作を終えたあとに書いた著作『魂の旅 地球交響曲第三番』(角川文庫)で、このドキュメンタリーに登場するはずであった「星野道夫」のことを書いている。

「登場するはずであった」というのは、「地球交響曲第三番」の撮影開始を10日後に控えた1996年8月8日の深夜、龍村仁はこの撮影でもっとも重要な出演者となるはずであった星野道夫の「死の報せ」を友人から受けたのだ。

星野道夫は、ロシアのテレビ番組の取材中に、熊に襲われて亡くなった。

深夜に、野外テントで就寝中に熊に襲われたという。

取材チームが山小屋で過ごしたのとは異なり、星野道夫は、野外テントを自ら選んでいた。

そして龍村仁は、星野道夫にインタビューしたときに、星野道夫が語っていたことを思い出すことになる。

 

「どこか近くに熊がいて、いつか自分が殺られるかも知れない、と感じながら行動している時の、あの、全身の神経が張りつめ、敏感になり切っている感覚がボクは好きです。あるインディアンの友人が言っていたんだけど、人類が生き延びてゆくために最も大切なのは“畏れ”だって。ボクもそう思います。我々人類が自然の営みに対する“畏れ”を失った時滅びてゆくんだと思うんです。今ボクたちは、その最後の期末試験を受けているような気がするんです」

龍村仁『魂の旅 地球交響曲第三番』(角川文庫)

 

星野道夫の「死」についてはぼくはあまり読んだことがなかったのだけれど、龍村仁の眼と心を通して、ぼくは星野道夫の「死」を思い、感じ、かんがえていた。

それから一晩明けた翌日に、ぼくは栗城史多の「死」を知り、ぼくの心のなかで、栗城史多の「死」が、なぜか、写真家の星野道夫の「死」と重なったのだ。

ぼくの心のなかで、星野道夫の「死」がその居場所を見つけられていないままに、栗城史多の「死」がぼくの心のなかにはいってくる。

星野道夫にとっての「熊」が、栗城史多にとっての「山」であるように、人と自然との関係性のあり様が、ぼくのなかで二人の死を重ねたのかもしれない。

 

 

ところで、栗城は、著書『弱者の勇気』のなかで、「下山」の難しさを次のように書いている。

 

 登りのときはモチベーションも高く、体と心のスイッチも入るが、下山となるとそのスイッチがオフになってしまう。下山時にどれだけスイッチをオンの状態に保てるか。下山こそ、本当の強さを求められるのだ。

栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年

 

この「下山」の難しさのなかで、栗城史多は山の懐に抱かれることになる。

 

各メディアニュースの見出しにも記されているように、栗城史多は以前、凍傷で最終的に9本の指を失っている。

その経緯と学びと気づきは、著書『弱者の勇気』のなかに詳細に書かれている。

「大きな事故のあとに、いい山登りができるようになる。その経験を糧にして、自分をコントロールできるようにならないと」という先輩の言葉を導きの糸にして、これまでの山登りとじぶんを見つめ直すなかで、栗城史多は、自分をコントロールする力を完全に失っていたじぶん、弱いじぶんを否定して強くなろうとしていたじぶんを見つける。

栗城は、これらの経験と学びと気づきを軸に、それまでに背負ってきた「とてつもなく重たい荷物」を少しずつ降ろし始める。

「楽しくなかったら下山しろ」という別の先輩の言葉を思い出しながら。

 

2012年、秋季エベレストで凍傷となって帰国した栗城は、東京の病院に入院しながら、札幌の父親になかなか電話できずにいたという。

凍傷で指を失う可能性があることなど、心配させたくないからであったと、栗城史多は書いている。

ようやく退院する直前に電話をかけることができ、怒られると思っていた栗城は、まったく違う状況に遭遇する。

 

…電話に出た父は、大きな声で開口一番こう言ったのだ。
「おめでとう」
その明るい声に僕は戸惑い、聞き返す。
「何がおめでとうなの?」
「生きて帰ってきたことに、おめでとう。そしてもう一つ、お前はその苦しみを背負ってまた、山に向かうことができる。それは、素晴らしいことなんだよ」

栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年

 

この瞬間に、栗城は、苦しくても、山へ復帰することを選んだのだ。

 

栗城史多の挑戦は「無謀」であったのだと、ある人はいう。

栗城史多の生涯は「挫折」であったのだと、ある人はいうかもしれない。

挑戦し続けた「秋季エベレスト無酸素・単独登山」を達成すれば、それでよかったのだろうか。

栗城史多は次のように書いている。

 

 僕が常に目指しているのは、山の頂ではなく、多くの人が夢を共有できる世界。…夢を「叶う・叶わない」で判断し、叶わない夢なら持たないほうがよいと考える人もいるけれど、僕はそうは思わない。
 夢は、その人が生きていくための源だと思っている。…
 人が人らしく生きるために大切なものなのだ。
 僕は、「冒険の共有」というテーマに、10年、20年先の未来を見据えた可能性を感じていた。

栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年

 

そんな栗城史多だからこそ、指を失ったときに「一番怖かったこと」は、「夢を失うこと」であった。

しかし、彼は、彼にとってとても大きな存在であり続けてきた父親の言葉にも生かされるようにして、夢を失うことなく、挑戦と冒険の共有をし続けてきたのだ。

そして、著書『弱者の勇気』は「見えない山を登る全ての人達」に向けられて、「あとがき」には「最終的に目指している山」の輪郭が書かれている。

 


僕はその出る杭を増やしたい。一人ひとりが様々な形をした出る杭になり、「あ、あなたも出る杭ですか」と街や会社で認め合える社会ができたら良いなと思っています。
今こうして山を登りながら、最終的に目指している山は、そこなのかもしれません。…
皆さん、ぜひ「出る杭」になってやりましょう!

栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年

 

批判や反対や否定などに晒されながら、しかし栗城史多は「出る杭」を生き、そして山の頂を超えた世界を描いていた。

そして、そんな世界に向けて、栗城史多は、最後まで、歩き尽くしたのだ。

 

栗城史多の直近のブログ、そして著書『弱者の勇気』をふたたび読んでいると、ぼくは、星野道夫が’亡くなったときに龍村仁が感じた「体感」が、少しは、わかるような気がしてくる。

星野道夫の死の報せを受け、深夜の新宿御苑にうねる森を見ながら、龍村仁は、からだの奥底から渾々と湧き続ける「星野道夫は生きている」という体感を得る。

「栗城史多は生きている」という感覚をぼくはどこかで感じながら、今はただ、感謝を伝えたいと、ぼくは思う