登山家の栗城史多の語る「旅」。- 「うまくいかないことって、実は意外と楽しい」(栗城史多)。 / by Jun Nakajima

「旅」について、ほんとうに残念ながらエベレストで帰らぬ人となった登山家の栗城史多が、その著書で書いている。

著書『弱者の勇気』(学研、2014年)のなかで、テーマ別の短いエッセイを集めた章で、「旅」にかんする文章を綴っている。

「無駄」というテーマのもとで、「旅」にふれる。

「無駄」という、一見するとマイナスな言葉のなかに、<光り輝くもの>を見つける視点である。

 

 …でも旅の面白さって、実は無駄な部分にあったりするんじゃないだろうか。
 例えば、列車が途中で止まってしまい、蒸し風呂のように暑い車内で一日過ごしたり、目的地までの道が崩れて迂回するはめになり、悪路を歩かされて大変な目にあったり。炎天下の中、自転車で移動したら迷子になった、とか。
 … 
 のちに旅を振り返ってみたときに思い出されるのは、意外とこうした無駄な経験だったりするのだ。

栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年

 

栗城史多は「無駄」な部分として語っているけれど、ここで語られる経験はまた、「途方に暮れる」経験であったり、「大変な」経験であったりする。

このような「無駄な経験」がのちに振り返って思い出されるのは、その経験の深さに印象づけられるためであったり、<じぶん>の枠を超えてゆくようなものでああるからであり、そしてまた、その経験のうちに、ほんとうは心が奪われているからでもあったりする。

列車が途中で止まってしまったり、道が崩れていたり、悪路であったり、迷子になったりするところから、ほんとうの「旅」がはじまる。

「入っては駄目」と言われていた扉をあけたら素晴らしい世界がひろがっていたという童話などと同じく、「無駄」という標識の扉も、じっさいにあけてみて、中に入ってみたら、想像以上の世界がひろがっていたりする。

だから、栗城史多は、「無駄」というテーマの短いエッセイで、「うまくいかないことって、実は意外と楽しい」と、文章の最後に書いている。

 

 山も同じで、写真で見るよりも自分の足で立って見る景色のほうが感動するし心に残る。目に見える世界を簡単に見ようとするのではなく、自分の心に刻みこめる世界。そういうものを僕は感じたい。

栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年

 

山登りということも、「山の頂上に登る」という結果だけからかんがえれば、それは「無駄」なことである。

人類は、山を登ることの代わりに、飛行機などを発明し、あっというまに効率的に、またリスク少なく、苦しむこともなく、山の頂上の高さまで飛翔できる。

そしてそこから、高性能なカメラを通じて、美しい景色をきりとることができる。

そのことに比べ、危険を冒し、一歩一歩、山を登ってゆくことは「無駄」なことである。

しかし、そのなかに、「生きる」ということの歓びの本質があったりするのだ。

 

ぼくも、ニュージーランドに住んでいたとき、徒歩縦断の試みや山登りなど、効率性の観点からは、いわゆる「無駄」と呼ばれる時間を生きていた。

アジアの旅だって、バスを乗り継いだり、陸で国境を越えたり、「無駄」な時間の積み重ねであった。

けれども、そのような経験たちが、ぼくの存在の地層を確かにつくってきたのだし、そして、栗城史多が書いているように、のちに旅を振り返ったときに思い出すことの多くは、やはりそのような思い出だったりする。

 

効率性を追求してきた近代社会の果てに、ぼくたちは「無駄」を見直す時代にはいっている。

もちろん効率性の追求は新たなテクノロジーの出現によってさらにすすんでいるのだけれど、それはすでに「次元」をいくつも上げながら、すすんでいる。

それらのような効率性の追求は、決して否定されるものでもない。

ただ、ぼくたちそれぞれの生きるという経験のぜんたいにおいては、「効率ー無駄」という区分を超えるようなところにも、その経験の深さと豊饒さがひろがっている。

次なる時代は、この経験の深さと豊饒さが解き放たれていく仕方で、ひらかれていくと、ぼくは思っている。

Posted in