心理学者マズローの「欲求の5段階」理論、つまり、「生理的欲求→安全の欲求→所属と愛情の欲求→尊敬の欲求→自己実現の欲求」というように低次の欲求から高次の欲求へと段階づける理論は、いろいろな著書や記事やコメントなどを見ていると、今でもよく引用され、またときに展開される議論や論理の根拠とされたりするのを見つけたりする。
心理学者の理論のなかで、これだけよく参照される理論と心理学者も、それほど多くないのではないかとも、思う。
マズローの理論は、「なんとなくわかったような気がしてしまう」ものであるけれど、いろいろと批判にさらされてきた理論でもある。
ぼくの立てる問いは、さまざまな批判などにもかかわらず、それでも、なぜマズローの理論(厳密にはマズローの「通俗化」された理論)が一般的によく語られ、「信じ」られ、あるいは根拠とされるのか、ということである。
社会学者の見田宗介は、『価値意識の理論』(弘文堂、1966年)において、人間の行為を規定するような「価値判断の<底>にあるもの」として、「欲求性向の構造と起源」を探求している。
心理学や隣接科学の歴史から、ただ一つの「基本的欲求」からすべてを説明しようとするものと、ときには40ないし100もの項目からなる欲求リストを提示するものを見ながら、これらのアプローチから一歩すすんでいく試みとして、マズローなどの欲求の分類が出てきたことを、見田宗介はまず振り返る。
そのうえで、マズローなどの発想の共通点として、欲求を「生理的ないし生得的な欲求」と「文化的ないし習得的な欲求」とに二分する考え方であるとして、位置づけている。
このように、「生理的欲求と文化的欲求」というように二分する考え方には、つぎのような二つの基本的な仮説(前提)をもつと、見田宗介は書いている。
(1)生理的欲求は、歴史的(系統発生的)にも発達史的(個体発生的)にも、原初的ないし第一次的な欲求であり、文化的欲求は派生的ないし第二次的な欲求である。
(2)生理的欲求はまた、その動因としてのつよさ、切実性あるいは優先性の点においても、基本的ないし第一次的な欲求であり、文化的欲求は派生的ないし第二次的な欲求である。
このような考え方は、「衣食足って礼節を知る」あるいは、「花よりダンゴ」という俗説に支持されており、…マスロウの仮説も同様である。
見田宗介『価値意識の理論』弘文堂、1966年
このように「欲求論における二分法」という考え方を括りだしながら、この二分法がつぎのように大別して三つの点から多くの批判にさらされていることを、整理している。
(1)「基本的仮説」の第二にたいする反証…すなわち、いわゆる「二次的」欲求の方がかあえって強力かつ切実な動因となるばあいも多いということ。
(2)人間においてはいわゆる「生理的欲求」でさえ、社会的・文化的要因によって深く浸透されており、この意味で純粋に「生理的」欲求を区分してとりだすことが、ほとんど不可能であるということ。
(3)そして最後に、このような二分法図式自体が、方法論的に「役に立たない」あるいは「無意味だ」とする主張である。
見田宗介『価値意識の理論』弘文堂、1966年
さまざまな研究と参照文献を縦横無尽に分析しながら、見田宗介は、欲求における二分法的な考え方(生理的要因と文化的要因)は、上述のような難点にもかかわらず、「欲求性向の構造と起源」ということの探求において、また「構造論的・発生論的な諸仮説の源泉」として、一定の役割を果たす、というところにとどめている。
これは社会学者である見田宗介の整理であるけれども、論理的に見ていくと、マズローの理論はやはりそのままでは根拠となるものではなく、ひとつの参照としての位置づけであるように思われる。
そこで、最初に挙げた問いが、ふたたびやってくる。
さまざまな批判などにもかかわらず、それでも、なぜマズローの理論(厳密にはマズローの「通俗化」された理論)が一般的によく語られ、「信じ」られ、あるいは根拠とされるのか。
考えられることとしては、第1に、欲求の二分法的な考え方が前提とする仮説が、俗説として、受け入れられやすいということがある。
見田宗介が挙げたように、「衣食足って礼節を知る」あるいは「花よりダンゴ」という俗説、そしてそれらの考え方を支える<感覚>が、日々、この世界で生きられているからである。
この意味において、マズローの理論は一般的に「わかりやすい」のである。
それは「理解」としても「わかりやすい」ものであり、また「感覚」としても「わかりやすい」ものである。
それから、第2に、最も高い次元として「自己実現」が掲げられていることである。
「自己実現」ということが言われるようになった/なってきた時代が、そこに合致しそうな論理と理論を呼び寄せたようなところがあると、ぼくは思う。
心理学者の河合隼雄はかつて、「自己実現」ということが一般化されるなかで、負の側面や誤解が生まれてきていた状況を指摘していたが、「自己実現」ということの一般化された見方が、マズローの一見すると「わかりやすい」理論と合わさるような仕方で、一般に受け入れられるようなところがあるのではないかと、ぼくは推測する。
そのような時代の背景には、「個人主義」が行き着いた社会と人のあり様が重なっている。
第3に、第1と第2の理由をベースとして、書く側・語る側としても「使いやすい」理論であろうことである。
「使いやすい」ということは、「わかりやすい」ということと共に、「受け取られやすい」ということでもある。
このような社会と人の「力学」のうちに、マズローの「欲求の5段階」理論(「自己実現理論」)が呼び寄せられてきたように、ぼくには見える。
とはいえ、すべてが否定されるべきものではないし、思考のプロセスのうえで視点を与えてくれるものでもある。
そしてなによりも、上で見てきたように、多くの人たちが「呼び寄せたくなる」理論という側面に、人と社会を逆照射する視点があぶりだされる。
このような「力学」のうちに、ぼくたちが生きている世界を<視る>ことができる。