社会学者の真木悠介が「自我の起原、われわれの<自己>という存在の仕方の起原を、人間という形態をとる以前の地層にまで遡って追求」した書物、『自我の起原』(岩波書店、1993年)は、真木悠介自身が書くように「分類の仕様のない書物」である。
この名著が<名著>としてより語られるようになるのは、おそらく、まだ先の時代のことであると思う。
そのくらいに、時間を超えて読み継がれてゆく書物であると、ぼくは思う。
この書物の最初は、これまでのオーソドックスな生物学の知見にふれながら、しかし、ぼくたちがじぶんをみる<見方>を変えてしまう。
「まとめ」にあたる章で、真木悠介はつぎのように書いている。
…われわれの<個体>という存在仕方は、生成子たちの永劫の転生の旅(eternal caravan of reincarnation)の一期の宿として、そして幾十万という生成子たちがそこに来会し集住する共生態として派生してきた。個体は共生系である。われわれの身体はこの共生する生成子たちの再生産によりふさわしい仕方で、幾億年来たゆみなく進化してきた。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
ここで「生成子」とは「遺伝子」(gene)のことである。
真木悠介は「遺伝子」ではなく、その原義に近い「生成子」という言葉を意図的に使っている。
「遺伝子」とはgeneに対して、個体中心主義的なドグマから翻訳された日本語である…。つまり個体の何かの形質を次世代の個体に遺し伝える「ための」メディアという考え方だ。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
ぼくたちの「個体」からの視点ではなく、「gene」の側からの視点で見ると、ぼくたちの「個体」は、いわば「のりもの」である。
真木悠介が、カルロス・サンタナのアルバム『キャラバンサライ』の第1曲「転生の永遠のキャラバン」という曲名を採用して、「生成子たちの永劫の転生の旅」(eternal caravan of reincarnation)というように、<個体>の存在仕方を書くとき、個体中心主義的なドグマからはなれ、生成子(gene)という視点からみたときの<世界観>である。
ぼくたちの身体を「一期の宿」としながら、生成子たちは、はるか昔から今へ、「永劫の転生の旅」をつづけてきたのである。
「転生」(reincarnation)ということが、ぼくたちの「個体」や「自己」ではなく、その「生成子」に拠って立つとき、それは生物学的な「真実」として、ぼくたちに開示される。
このことはそれだけでもほんとうに目を見開かせることなのだけれど、ぼくたちはこの「かけがえのない個」に執着しがちだからか、そのような驚きや感動を減じてしまうようなところがあるのかもしれない。
ぼくたちひとりひとりの「個体」という「一期の宿」には、太古からひきつがれてきたものが、生きている。
この視点に立つと、写真家の星野道夫とドキュメンタリー映画監督の龍村仁が、「ぼくたちの中に眠っている五千年、一万年の記憶が蘇るような映画にしたいね」と、映画「地球交響曲 第三番」について語るとき(龍村仁『魂の旅 地球交響曲第三番』角川文庫)、それはある意味において「根拠」のないことではないこととして、立ち上がってくる。
生成子たちの視点から見れば、そこには太古からの叡智が結集されている。
ぼくたちの中に「眠っている」という言い方は「個体」を中心とした見方であり、生成子たちの視点からは、眠っているのではなく、生きているのである。
生成子たちの視点から見える<世界>は、こうして、ぼくたちの「個体」が見る世界を、「あたりまえではないもの」として、一気にひらいていく。
この感覚はぼくにとって、とても不思議なものだ。
でも、ぼくのなかに、太古からの叡智が生きているのだと感じることは、「なにがあっても大丈夫」という感覚を、ぼくに与えてもくれる。