宇宙物理学者フリーマン・ダイソンは、龍村仁のドキュメンタリー映画『地球交響曲第三番』の収録のインタビューを、生命の「多様性」の話から始め、話は「死」ということにつながっていった(龍村仁『魂の旅 地球交響曲第三番』角川文庫)。
収録の直前に、フリーマンと龍村の共通の友人であり、この映画に出演予定であった写真家の星野道夫を失ったばかりであった。
そのインタビューのポイントをつかみながら、龍村仁はつぎのように書いている。
三十五億年の昔、この地球に初めての生命が誕生した頃、「死」はまだ生命システムの中に組み込まれていなかった。原初生命体は分裂増殖を繰り返すだけで、必ず死ぬ、と定められていたわけではなかった。誕生したものは必ず死ぬ、という仕組みが生命システムの中にプログラムされたのは、性が誕生した時からだ。…
龍村仁『魂の旅 地球交響曲第三番』角川文庫
ぼくたちの日常意識においては、「生きるものは死すもの」という考え方が「ふつう」である。
しかし、フリーマンが語るように、原初生命体は分裂増殖を繰り返すだけであった。
「自我の起原」を人間という形態をとる以前の地層にまで遡って探求した社会学者の真木悠介は、「死の起原/性の起原」という節を立てて、このことを、つぎのように書いている。
多細胞「個体」という存在の顕著な特質は、必ず死ぬ存在であるということである。単細胞生物は死なない。死ぬこともあるが、われわれのように<不可避の死>というものをもたない。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
「必ず死ぬ」ということは、たんに生きているからということだけでなく、多細胞「個体」として生きているからである。
真木悠介は、進化生物学者リチャード・ドーキンスの言う「ボトルネック化」にふれながら、多細胞個体は、「単細胞」の生殖子という「細い糸」をとおして次世代につながってゆくこと、そして、多細胞個体は、「ノアの方舟のようにただ1艘というわけではないが、…生成子(遺伝子)のひとそろえを乗客とする小さな舟たちを発進させて自分は死んでいく」と、書いている。
ドーキンスによれば、多細胞個体は、こうすることで、複雑な適応を進化させることができる。
フリーマンが語るように、原初生命体に「死」はなかったけれど、進化の過程で、多細胞「個体」という仕方で、生命体は複雑な適応をしてゆくことへと、ひらかれていく。
そして、インフルエンザ・ウィルスの「新型」のように、微生物は絶えず遺伝子の組み替えを行なっているのに対し、多細胞「個体」は遺伝子の組み替えを、自由にすることはできない。
この不自由さの代わりに、多細胞「個体」には「性という革命」がある、つまり「性によって命を革(あらた)める」のだと、真木悠介は論をすすめてゆく。
われわれの個体の「自己」のアイデンティティは、生成子の交換を生殖の時だけに限定することをとおして、成立する。…
性という<革命>のかたちをとおして、個体の立場からみれば、死は真に徹底した死となる。性のある者は、同じ遺伝子型の個体を決して残さない。…われわれが性の存在であるということは、完全に死すべき存在であるということだ。生成子の転生=再身体化 reincarnationの永遠の旅は、この個体の徹底した死をとおして貫徹する。そして個体は、くりかえしのない真に一回限りの生として、「個」として確立する。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
誕生したものが必ず死ぬのは「性」が誕生したときだという、フリーマンの語りが、ここで真木悠介の語りとつながってくる。
「性」という革命で、「個体」はいずれ死んでゆく。
しかしそのことを生成子たちの立場からみるのであれば、それぞれの「個体」を<のりもの>としながら、「性という革命」を通じて、永遠の旅をつづけてゆくことになる。
真木悠介は、「死の起原/性の起原」という節を、つぎのように閉じている。
死すべきものであるということは、生きているものであるということの宿命ではない。個であることの宿命である。とりわけ、性的な個であることの宿命である。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
文学作品や映画などにおいて、「死と性」は密接するものとして描かれたりするのに、ぼくたちはときおり出逢う。
それは単なる幻想ではなく、「死すべきものであるということは、性的な個であることの宿命である」ことからくる、人間の生の根源的な一面でもある。
「生きているものの宿命として死がある」という日常意識にとって、この認識は、ぼくたちの目を(ふたたび)見開かせてゆくものである。
その視点から、「個」であること、また「性的な個」であること、という、ぼくたちにとっての「あたりまえ」ことが、「あたりまえではない」ものとして立ち上がってくる。