ビフテキと茶碗蒸し。
まったく意味のわからない並置は、日米文化比較のエッセイ集の著書名(『ビフテキと茶碗蒸し』暮しの手帖、1994年)である。
書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」の1673夜(2018年5月2日)にて、とりあげられた本である。
著者の松山幸雄は朝日新聞のニューヨーク支局長やアメリカ総局長を遍歴した人物。
著書は1994年に発刊され、このエッセイが書かれた時代背景も一昔前ではあるけれど、松岡正剛も指摘するように、「ビフテキと茶碗蒸し」というタイトルの対比は意外なものであり、好奇心をそそられるものだ。
松山幸雄が国際会議に参加しているとき、途中ずっとハンバーグやビフテキだったところ、最終日に行った料理店で出てきた茶碗蒸しに同行者一同が感激したことの体験から、「ビフテキと茶碗蒸し」にアメリカと日本の違いを見てとったという。
このような文化の比較・対比は、松岡正剛がここで例を挙げているように、これまでもさまざまに語られてきた。
そのような比較・対比が語られるようになってきた流れを、例えばルース・ベネディクト『菊と刀』などに見ながら、松岡正剛も、きりっとした比較・対比を文章にもりこんでいる。
「訴訟するアメリカ、自粛する日本」や「以言伝心のアメリカ社会、以心伝心の日本社会」などの側面を、博識と慧眼に支えられた視点で書いている。
ぼくがおもしろく読んだ箇所は、「過剰サービス社会の日本」という文脈で、アメリカの作家スーザン・ソンタグと松岡正剛が国鉄に乗っていたときのやりとりである。
本書には、ラッシュ時の駅のアナウンスが「降りる人がすんでから、すいている扉から順にお乗りください」と言っている例が出ていたが、ぼくもスーザン・ソンタグ(695夜)と国電に乗ってアナウンスや貼紙の文言を尋ねられたときは、いやになった。「いま、何て言ったの?」「電車が入りますから、白線より下がってお待ちくださいって言った」「いまのアナウンスは?」「前の人に続いて順にお乗りください」「その次のは?」「閉まる扉にご注意ください」「あっそう。これは、なんて書いてあるの?」「指がはさまれるのをご注意ください」。ソンタグは呆れ、「日本人ってそこまで言われないとわからないのね」。
いや、言われないとわからないのではなく、「サービス過剰」と「言わずもがな」と「責任回避」が一緒くたなのである。ソンタグは遠慮なく追い打ちをかけてきた。「どの駅でも同じことを言っているの?」、ぼく「そうね」。ソンタグ「公衆道徳はどこにあるの?」、ぼく「公示するんだね」。「ふうん、自主性を教えられていないのね」、ぼく「そうだ」。そう言うしかない。
「あの」スーザン・ソンタグがどのように日本社会を観たのかということ、またその視点の新鮮さ、さらに松岡正剛の応答と考察を、ぼくは興味深く読んだ。
さらに、著者の松山幸雄がかなり苛立っているという「日本人の会話力」についての松岡正剛の考察も、海外に住んできたぼくとしては、やはり耳を傾けたくなる。
英語はうまくなる必要はない。発音も二の次でいい。要めになる単語をはっきり言えば、あとはもぐもぐしてもいい。それよりも「何を話すか」「何を話しているか」を方向づけ、そこを強調したほうがいいに決まっているのだが、ところがこれがへたくそだ。ぼくは同時通訳のグループを10年ほど預かって、いかに日本人の会話やスピーチの通訳が厄介か、要約するのが困難か、かれらから何十回となく聞かされてきた。白洲正子(893夜)もずっとそう感じていたようだ。『白洲正子自伝』(新潮文庫)に、英米人は日本人が何を話しているのかわからないといつも言っているという話を書いていた。
このようにとてもストレートに、松岡正剛は書いている。
ぼくは会話や会議や議論でこのような失敗をいっぱいしてきたうえで言うのだけれど、松岡正剛の意見に同感である。
アメリカなどに限らず、アジアにおいても、日本人が「何を話しているのかわからない」と感じる人たちに、ぼくは数えきれないほど出会ってきたのだ。
なお、松岡正剛はこの会話力の文脈の流れで、「ディベート」についても言及し、独自の視点を一気にさしこんでいる。
このような「比較・対比」は、じぶんを知り、他者を知り、そしてその間の距離を確かめ、柔軟に実践していくことにおいて、有効な方法のひとつである。
もちろん、それは事象の側面をわかりやすくきりとったものであり、「わかりやすさ」が切り捨ててしまう側面もある。
また、そのような比較・対比が「偏見化」してしまい、実際の事象を観るときに、見方を固定してしまう可能性もある。
そのような負の側面を考慮しつつ、それでも、有効な方法のひとつとして、ぼくたちはそこから学び、そこにとどまるのではなく、そこから思考や考察をひろげてゆくことができる。
それにしても、「ビフテキと茶碗蒸し」は意外な対比であった。
ここ香港で言えば、この意外性に相当するものは何だろうかと、ついつい、かんがえてしまう(けれど、思いつかない)。