香港のとても暑い日に、グーグルのアプリ「Google Earth」を久しぶりにひらき、その「バーチャル地球儀」の「世界」を楽しむ。
その「世界」は、衛星写真などで世界を構成し、世界のどこへでも、一気に、降りたつことができる。
場所によっては、通りの風景(「Street View」)までが映しだされる。
「3D」での表示もあったり、その他の機能も搭載され、この世界という<空間>を楽しむことのできるアプリだ。
<空間>だけでなく、ぼくたちの思い出と記憶を重ね合わせることで、そこに<時間>を視ることだってできる。
今まで旅したところや訪れたところ、あるいはそれなりの期間にわたって滞在していたところに、時空をこえて、ぼくたちは降りたつことができる。
風景を「思い出と記憶」のなかに大事にしまっておくこともひとつだけれど、「Google Earth」を通して、その不思議な世界に立ってみることも面白いものである。
そのようにして、ぼくたちは、その風景の表層だけであれば、この世界の空間をこえて、いつでも行ける時代に生きている。
ぼくがかつて住んでいたところが、今どうなっているだろうかという好奇心におされながら、ぼくはそこへの道ゆきをたどっていく。
やがて、「懐かしい」風景が、ぼくの前に現れる。
庭の風景が少し変わったけれど、家の様相は変わっていない。
「Google Earth」を楽しみながら、そのような「Google Earthの時代」における、旅や海外滞在の「あり方」が、ふと気にかかってくる。
旅や海外滞在ということが、色あせてしまうようなことはないだろうか。
昔の風景をGoogle Earthのなかに見ながら、「思い出」に色彩を与えていた想像の風景から、何かがぬけおちてしまうだろうか。
そのように気にかかりながら、それでも、Google Earthが映しだす通りの風景だけでは代替できないものが、はっきりと浮かびあがってくる。
<五感で捉えられた風景>と<風景のなかの物語>である。
Google Earthで、世界のどこにも瞬時にして行くことができるけれど、ぼくたちは、その風景を基本的には<視る>のであり、その場を<五感>で捉えることはできない。
そこの風景には、香りがあり、音があり、手触りがあり、またそこで食べていたものがある。
将来は、テクノロジーの進化により、香りや音や手触りを感じることのできるようなものが出てくるかもしれない。
それでもやはり、その場の風景そのものに代替することはできない(だろう)。
また、五感で感じることの、その<全体感>のようなものがあると、ぼくは思う。
仮に、<五感で捉えられた風景>がテクノロジーで再現されるようなことがあったとしても、それでも、<風景のなかの物語>は、その場を旅し、あるいは住むことで、つくられてゆく。
テクノロジーによって再現されるものではなく、ぼくたちの内面につくってゆくものである。
あるいは、他者たちとの<あいだ>につくってゆくものである。
ぼくたちのなかに、やはり残るものとしての<物語>。
「Google Earth」時代にあっても、ぼくたちは、ぼくたちそれぞれの物語、また他者と共有する物語を、豊饒に生きてゆくことができる。