ぼくたちが生きていくなかで、他者との関わり方、他者との関係の「あり方」をかんがえるとき、そこには他者を「他者」として一括りとすることに困難を感じる。
その理由のひとつは、じぶんと「他者」という関係の距離感や濃度がさまざまな様相をみせることである。
例えば、じぶんの「家族」との関係の距離感は近く、関係の濃度も濃かったりする。
もちろん、友人などとの関係が、家族との関係よりも近く、そして濃いことだってある。
だから、社会的なラベルは、じぶんと他者との関係のあり方をかんがえる際には、絶対的ではない。
さらには、そもそも、人は、小さい頃から「他者に好かれる」「他者に嫌われない」ように生きてきたりするけれど、生きてゆく道ゆきのなかで、「すべての他者」に好かれたりすることはないことを、実感として知る。
それでも、小さい頃からの教えを身体に刻みこんだ人たちは、「他者に好かれる」「他者に嫌われない」生き方を一心に追求していき、日々に奮闘する。
「世界平和」のイメージは子供の頃に触れるものであったりするけれど、「世界平和」は、誰とも仲良くすること、誰からも好かれること、ではない。
そんなふうにかんがえてみると、「他者」を一括りでは語れない、となる。
また、「他者」を一括りで語る仕方は、人をまどわせるものでもあると、思う。
「他者」との関係の「あり方」を原的にかんがえることにおいて、ぼくを導いてくれたのも、社会学者の見田宗介であった。
「社会の理想的なあり方を構想する仕方」として、見田宗介は、<他者の両義性>という原的な地点から、理論を構成してゆく。
「他者」とは、
- 人間にとって、生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉
- 人間にとって、生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態と源泉
である(参照:「補 交響圏とルール圏」『社会学入門』岩波新書)。
見田宗介は、ここを原的な出発点としながら、次に、1を「関係のユートピア」の方向に、そして2を「関係のルール」の方向として展開し、理論設計の第一次的な様相を「<関係のユートピア・間・関係のルール>」として取り出してゆく。
ここでは、これ以上、この理論設計には踏み込まないけれど、じぶんと他者との関係の「あり方」をかんがえていく際にも、このように<他者の両義性>の原的な地点を出発点とすることは、とても大切なことであると、ぼくはかんがえる。
少なくとも、ぼくたちは、「すべての他者」たちと、<関係のユートピア>をつくるわけではないことが、シンプルに理解できる。
もう一歩、見田宗介の「言葉」を取り上げておくならば、「<関係のユートピア・間・関係のルール>」における、他者との関わり方は、次のように表現されている。
それは、
<交歓する他者>and/or<尊重する他者>
である。
つまり、「関係のユートピア」においては、他者たちは<交歓>する他者たちである。
また、「関係のルール」においては、他者たちは<尊重>する他者たちである。
このように、<他者の両義性>に、それぞれ対応する他者たちである。
じぶんが生きていくということにおいても、人は「関係のユートピア」を築き、他者たちと<交歓>する関係をつくってゆくことができるとともに、そうではない他者たちとの関係においては、<尊重>という仕方で関係を築いてゆくことができる。
このことは言われてみれば「あたりまえ」のことだけれど、ぼくたちはときに、「他者との関係のあり方」を一括りにかんがえようとしてしまう。
だから、<他者の両義性>を出発点としながら、他者との関係のあり方をかんがえてゆくことが、とても大切になると、ぼくはかんがえる。