夜空にひろがる惑星や星たちを見ながら、以前、ふと、でも深いところで、思ったことがある。
地球のなかにおいては、ぼくは一日「同じ場所」にいるにしても、「宇宙」のなかにおいては、ぼくは、いつも、<移動>しているのだ、と。
だから、例えば終日家にずっといるとしても、実際には「じっとしていない」。
「宇宙」という座標軸においては、<ぼくたち>は、いつだって、動いているのである。
バックミンスター・フラーが提唱した言葉を使えば、ぼくたちは「宇宙船地球号」(Spaceship Earth)に乗って、この宇宙をつねに、動いていることになる。
「宇宙船地球号」は、太陽の周りを、自転しながら公転するというように、いつだって、二重に動いているのだ。
こうして、朝食を食べていた食卓は、夕食を食べる頃には「そこ」にはなく、宇宙の座標軸のなかを、はるかに旅していることになる。
部屋にひきこもっているとしても、気がつけば、そこは宇宙の違う場所に移動していることになる。
天動説ではなく、コペルニクスが唱えた「地動説」のことなど、誰もが知っている。
けれども、「地動説」は誰でも知るところではあるけれど、そのことは、「地動説」を誰もが<実感として生きている>ということではない。
朝食を食べていた食卓は、夕食時にはやはり「そこ」にあるし、ぼくたちは「同じ場所」で食事をとっていると、感覚する。
部屋にひきこもっていれば、他人は、その人を「同じ場所」にいると、思っている。
もちろん、「地球」を閉じた空間として見れば、「同じ場所」であろう。
しかし、ある意味において、そのように見ているのは、<天動説的な見方>である。
つまり、宇宙は、「実感」として、地球が中心にあるように感覚し、生きていることになる。
ぼくが、ある日、夜空を見ながら、ふと、でも深いところで思ったのは、この不思議さであった。
朝、家を出て、夕方に家に帰ってくるころには、ぼくは、宇宙の違うところに移動(旅)しているという、不思議さ。
朝見ていた天空の方向性は、夕方には、宇宙のまったく異なる方向に向かっているということの、その不思議さ。
ぼくは、その不思議さに圧倒されながら、「宇宙船地球号」に乗っているじぶんを、外部から見ているように感覚したのだ。
漫画版のベストセラーで一躍有名になった、吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)において、「叔父さん」が主人公のコペル君に宛てて書いた最初の手紙は、「ものの見方について」と題され、このコペルニクスの地動説を素材にしている。
そのなかに、つぎのように言葉が書き綴られている。
コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫
叔父さんは、「自分中心」的なものの見方を超えてゆくところに、コペル君の未来を見ている。
それにしても、コペルニクスの地動説による<転回>は、今となっては、誰もが知るところだけれど、当時はほとんどの人が信じることのできなかったことだ。
ぼくたちが生きるということにおいても、ぼくたちの考え方や生き方のなかに、<コペルニクス的転回>を見つけ、気づき、行動を反転し、きりひらいてゆくことができる。
「地動説」を初めはほとんどの人が信じることをせず、危険視までしていたことと同じに、<コペルニクス的転回>の思考や生き方は、周りの人たち、そしてぼくたち自身も、信じることができないものかもしれない。
でも、<コペルニクス的転回>の思考や生き方は、ぼくたちが「同じ場所」にいるにもかかわらず、<地球のなかで動いていない>という見方を、<宇宙のなかでいつも動いている>という見方に転換するほどの、原的な転換を生んでいくのである。