日本の地方に住んでいる者にとって、例えば「東京」は、「幻想の都」である。
それは「あこがれの都会」である。
ぼくもかつて、高校までを静岡県浜松市で過ごした後、大学は東京にある大学に行くことを切望していた。
「東京」という都市が装う色彩は、とても魅力的であったのだ。
当時感じていた閉塞性をひらいてくれる空間が、「東京」にあるものだと、ぼくは思っていたのである。
しかし、東京に実際に住むようになって、楽しさを感じる側面もありながら、他方で東京という都市がまとっている「幻想」が、ぼくのなかではがれてくるのを感じる。
ぼくは、地方から「東京」へ上京し、そこに生きながら、そこから生きることの<軌道>を、アジアを旅しながら、またいろいろな現実の重力にひっぱられながら、見極めていくことになる。
もちろん、ぼくに限らず、数かぎりない青年たちが、東京やその他の大都市へと向かってきた。
さらには、<東京>という大都市と並ぶように語られる、パリやロンドンなどにもひろがりをもつ、近代化の「物語」でもある。
このような大都市へのあこがれは、とても大きいものである。
作家の宮沢賢治も、同じようなあこがれをもった一人として、幾度か、東京へと上京を試みていたという。
そんな宮沢賢治の生をおいながら、社会学者の見田宗介は、宮沢賢治のすすんだ軌条を、つぎのように書いている。
…賢治の資質は、結局東京やその水平の延長上の都、パリやロンドンに終着する幻想に住することえを許さず、むしろ垂直に折り返して岩手自体の心象の気圏のうちに、<イーハトーヴォ>の夢を設営する。
見田宗介「補章 風景が離陸するとき」『宮沢賢治』岩波現代文庫
「イーハトーヴォ」について、宮沢賢治は『注文の多い料理店』の広告文に、つぎのように書いている。
イーハトブは一つの地名である。…実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である。そこでは、あらゆる事が可能である。…
宮沢賢治『注文の多い料理店』広告文、青空文庫
見田宗介は、さらに高度経済成長以降の日本にふれながら、そこにみられる対欧米コンプレックスの消失などに、「ふるさとから<東京>→<世界の首都>」へと向かっていくような幻想の水平性の基礎が解体されてきたことを読みとっている。
そのうえで、つぎのように文章をつづけている。
…成熟しつくした近代としての現代の少年や青年たちの夢を設営する空間は、幻想のすすむ軌条をどこかで透明に離陸するはずの、あの異次元の空間にしか残されていない。
見田宗介「補章 風景が離陸するとき」『宮沢賢治』岩波現代文庫
ふるさとの地も、<東京>も、世界の都市たちも、魅力に充ちた空間である。
しかし、そこは<ドリームランド>を保証する空間ではない。
ぼくたちはぼくたちの「外部」をどこまで行ったとしても、ほんとうの<ドリームランド>を設営することはできない。
ふるさとから東京に上京したぼくは、そのようなことを「感覚」のなかで感じつつ、しかし実際の空間を移りながら生きてきた。
アジアの旅、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港。
それぞれの地に生きることを楽しみながら、しかし<ドリームランド>は、ぼく(あるいはぼくたち)自身の心象中に実在するドリームランドとしての「地球」であると、ぼくは心象の気圏に想像・創造している。