ぼくは音楽が好きだ。
もちろん、すべての「音楽」が好きなわけではないけれど、生きるという経験の背景において、あるいはそのステージ上において、音楽がいつも奏でられている。
ぼくが音楽を好きなのは、音楽の街、浜松市に生まれたということも関係しているかもしれないし、物心ついたときにはピアノの鍵盤を通じて「音」を楽しんでいたことも理由(あるいは証拠)かもしれない。
20代前半くらいまでは、ギターなどを手に「音を奏でる」ことが日常であったのが、いつからか、「音を聴く」ことへと重心を移動させてきたところがある。
そして、ときに、音楽について、書く。
音楽について「書く」というのは、実はなかなか骨をおるところがあるのは、実際に書きながら、思ってきたところだ。
だから、小説家の村上春樹が音楽について書くのを読むようになって、文章のひろがりと深さ、そして何よりも、文章における音楽的なリズムに心を揺り動かされてきた。
批評家としての文章ではなく、「生きる=書く=音楽」がひとつになっているような、そのような文章である。
村上春樹が書く、そんな音楽に関する文章を読んでいると、ぼくの心の奥の「何か」がひらいて、ぼくは音楽を聴きたくなってくるのだ。
ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクが、「あなたの弾く音はどうしてそんなに特別な響き方をするのですか?」と聞かれたときに、ピアノを指差しながら彼が応えた言葉を、村上春樹はあるところで、「小説を書きながら、よく思い出す」言葉として、書いている。
モンクがどう応えたかを、まずは想像してみてほしい。
モンクは、次のように応えたという。
「新しい音(note)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」
村上春樹「違う響きを求めて」『雑文集』新潮社
モンクの語る英語を、このように日本語訳をする村上春樹はさすがであるけれど、村上春樹は小説を書きながら、この言葉をよく思い出す。
村上春樹は、「音」から「言葉」のことへとスライドさせながら、つぎのように書く。
…そう、新しい言葉なんてどこにもありはしない。ごく当たり前の普通の言葉に、新しい意味や、特別な響きを賦与するのが我々の仕事なんだ、と。そう考えると僕は安心することができる。我々の前にはまだまだ広い未知の地平が広がっている。開拓を待っている肥沃な大地がそこにはあるのだ。
村上春樹「違う響きを求めて」『雑文集』新潮社
ぼくは、「音」から「言葉」、そして「言葉」から「生きる」ことそのものへと、ここで語られることの本質をさらにスライドさせて読む。
「生きる」ということそのものも、抽象度を上げて語れば、形としての「新しい生き方」なんてないのだ、と。
でも、じぶんの生き方に、新しい意味や特別な響きをあたえていくことが、ぼくたちの生きるということでもある。
ぼくたちは、それぞれが、<違った響き方>で、じぶんの生を奏でてゆく。
そのことが、自己実現(self-actualization)ということの、ひとつの側面を語っているように、ぼくは思う。