社会学者の見田宗介にとって、劇作家である寺山修司(1935~1983)と喫茶店で交わした「短い会話」が、その後の見田宗介に「ずいぶん深い影響」を与えてきたという(※参照 討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社)。
見田宗介は気の合った寺山修司との会話について、討議の相手である加藤典洋に向けて、つぎのように語っている。
…一つだけ対立したことがあって、「僕は歴史が好きで地理は興味がない」と言ったら、寺山は「僕は歴史に興味がなくて、地理が好きだ」と言ったことです。「歴史は待たなきゃいけないからきらいだ。ぼくは走って行く人だから」と。…ぼくはそれまでは時間の思想でしたが、寺山の話を聞いていて、空間の思想もいいものだと思いました。今思うと、この短い会話は、ぼくにずいぶん深い影響を与えたように思います。
討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社
この短い会話をもとに、その後に見田宗介は「空間の思想/時間の思想」(初出:1969年)という、興味深いエッセイを書いている。
今では、見田宗介著作集(『定本X』)に収められたこのエッセイであるけれど、ぼく自身がこのエッセイに初めて出会ったのは、とても意外なところであった。
見田宗介の著作に魅かれ、手に入る著作群を徹底的に読み始めていたころ(20年も前のころ)、古本屋で購入した見田宗介の著作のなかに、このエッセイが掲載された新聞の切り抜きがはさまれていたのだ。
予想もしていなかったその「幸運」にひかれてゆくように、ぼくはこのエッセイを読み、そして一読して、その「世界」に深くひきずりこまれたのだ。
「歴史」と「地理」をそのものとしてみれば、「歴史」は動き、「地理」は動かないものだけれども、行動する<じぶん>から見る視点において、「歴史」は<待つ>思想であり、「地理」は<走る>思想であることに見田宗介はふれながら、エッセイは生きることの本質へと降りてゆく。
寺山修司との「短い会話」に触発された「短いエッセイ」は、しかし、見田宗介自身の生や思想に影響を与え、そしてこの新聞の切り抜きを著作のなかにはさんでいた人にも、さらにはそれを読んだぼくにも、大きな影響を与えたのだと思う。
ぼくが生きるということでは、ぼくも「走る」思想において、「地理」をかけぬけてきたようなところがある。
日本の外へと/日本の外を「走る」なかで、ぼくも生きてきた。
ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そしてここ香港…。
ところが、ここのところは、ぼくは「歴史」(時間)に強くひかれている。
いろいろな「空間」(地理)のなかに、ぼくは「歴史」を見たくなる/見るのだ。
「歴史/地理」あるいは「時間/空間」という視点は、ぼくにとって、世界を見る「見方」を、いっそう面白くしてくれている。
ところで、ここ「香港」はどうなのだろうか、とかんがえる。
寺山修司が「ぼくは走って行く人だから」と聞いて、ぼくは香港も「走って行く」のだと思う。
何かをゆっくり<待つ>のではなく、空間に向けて、ひたすらに全速力で、走って行く。
そんなことを、雨が降りそそぐなか「夏至」を迎えた香港で、かんがえる。
「夏至」は「時間」のことだけれど、ある見方において「空間」とも言えるのかなと、時空に関するじぶんのかんがえかたが歪みはじめる。