「ふたつの歴史」の結合としての夫婦の絆。- 河合隼雄とともにかんがえる「家族関係」。 / by Jun Nakajima

世界のいろいろなところに住んでいて、いろいろな「家族」と接し、あるいは見ていると、「家族」ということをかんがえさせられる。

ニュージーランドで、西アフリカのシエラレオネで、東ティモールで、そしてここ香港で、ぼくはいろいろな仕方で、いろいろな家族と接してきた。

家族のしあわせな姿があり、あるいは家族の葛藤がある。

 

心理学者・心理療法家であった河合隼雄の著作では、いろいろなところで「家族」にふれられているけれど、そのなかに「家族関係を考える」という、正面から家族をかんがえる著作がある。

「家族」というものを、とくに日本の1970年代に変わりつつある家族、親子という関係、夫婦、父と息子、母と娘、父と娘、きょうだい、老人と家族など、さまざまな諸相から論じられている。

「西洋と日本」の差異をつねに意識していた河合隼雄は、ここでも、その差異を丁寧に見極めながら、家族について書いている。

 

「夫婦の絆」に触れた章で、河合隼雄は、夫婦の絆は親子関係の絆を切断していき、新しい絆の再生をしてゆくことであり、この「分かち合い」を「愛」と呼べることではないかと、提起している。

 

…夫婦の絆は親子の絆と十字に切り結ぶものである。新しい結合は、古いものの切断を要請する。若い二人が結ばれるとき、それは当然ながら、それぞれの親子関係の絆を斬り離そうとするものである。一度切り離された絆は、各人の努力によって新しい絆へとつくりかえて行かねばならない。この切断の痛みに耐え、新しい絆の再生への努力をわかち合うことこそ、愛と呼べることではないだろうか。それは多くの人の苦しみと痛みの体験を必要とするものである。

河合隼雄『家族関係を考える』講談社現代新書、1980年

 

夫婦関係をつくってゆくことには、このように、古いものが壊され、新しいものが創られるという、創造の本質がおりこまれている。

この「再生」への努力をわかち合うことこそ「愛」と呼べることではないかと語るところに、河合隼雄の慧眼と生き方がにじみでているのだけれど、さらに面白い言い方として、河合隼雄は、「ふたつの歴史」が結合してゆくのだとして、その「大変さ」を書いている。

 

 夫婦は結婚に至るまで、それぞれの歴史を背負っている。それが結合されるのだから、これは考えてみると大変なことである。各人の古い歴史からの呼びかけは、どうしても新しい結合をゆさぶるものとして感じとられやすい。このような危険性を防ぐため、人間はいろいろな結婚制度や、結婚に伴う倫理をつくりあげてきた。

河合隼雄『家族関係を考える』講談社現代新書、1980年

 

結婚に伴う制度や倫理は、日本では「家」が大切にされ、女性はこの「家」に嫁入りすることであったりした。

河合隼雄が言うように、「ふたつの歴史」の相克を、制度や倫理が回避させてきた側面がある。

しかし、現代は、そのような制度や倫理は「新しい結婚観」にとってかわられ、「家」ではなく、「個人」を大切にするところとなっている。

そのことは必然のことであるし、またよいことでもある。

けれども、「ふたつの歴史」の相克を身にひきうけて、みずから結合させてゆく「個人」にはなっていないのではないかと、1980年の河合隼雄は書いている。

河合隼雄がこのことを書いたときから、ほぼ40年がすぎたけれど、「個人」ということの確立については、いまだに「途上」であるように、ぼくには感じられる。

 

ぼくたちの日々の生活の「前線」でもあることからして、「家族」について、ぼくたちはいつもかんがえている。

「かんがえている」のだけれど、家族だからこそ、あまりに近いことだからこそ、よく見えなかったりする。

だから、ときに、「家族」について書かれた著作を読むことは、「家族関係を考える」ことに、より客観的になれる距離をつくってくれる。

河合隼雄は、そんなときの、よき相談者であり、よき伴走者である。