「空間の思想/時間の思想」(初出:1969年)というタイトルの興味深いエッセイを、寺山修司との「短い会話」に触発されて、社会学者の見田宗介は書いている。
寺山との会話で「歴史が好きか、地理が好きか」ということで、好みが分かれたことによる。
生きる人を主体とする立場からは、「歴史=時間」であり、また「地理=空間」である。
「歴史」ということに魅かれてき見田宗介は、やがて「時間」を素材に、名著『時間の比較社会学』(岩波書店)を真木悠介名で書くことになる。
「時間」という、哲学や宗教や文学、あるいは物理学の範疇にあった素材を、「比較社会」という視点で明晰に論じた書物である。
その見田宗介が、1996年に『現代詩手帖』に「火の空間」という文章を寄稿し、それが「見田宗介著作集」に収められる際には、「火の空間ー空間の比較社会学」というように、「空間の比較社会学」という副題が付された。
その副題には、「時間の比較社会学」にたいしての、「空間の比較社会学」という問題意識が明示されている。
数ページの短い文章だけれど、それは、ぼくの好奇心をそそってやまない文章だ。
そこでは、空間における、「左右」という非対称の「意味」が、比較社会の視点でさぐられている。
まずは、人類学・民族学・言語学で、よく語られ、よく知られている、「右の優越」ということをふりかえるところから、はじまっている。
例えば、英語の「right」は「正しい」ということにかぎらず、「left」は「弱い」という意味の古語が変形したものだという。
あるいは、ドイツ語における「左(link)」は明確に「不正」の観念にむすびつき、またラテン語の「右(dexter)」は「幸運」であり「左(sinister)」は「不吉」を意味する、等々。
これらの例は、インド・ヨーロッパ語系だけでなく、アフリカの諸族にも多くみられるという。
さらには、ロベール・エルツは、宗教社会学的な視点で、「右手の優越」(ちくま学芸文庫)という論文(『右手の優越』ちくま学芸文庫)を書いている。
それにしても、ぼくも日常において英語を話すときに、「right」(正しい)という言葉には、ときおり違和感を感じる。
「right」が「正しい」という意味をもつ一方で、非対称としての「左」は「正しくない」ということではないのだけれど、と思ってしまう。
その違和感は、「右利き」が標準とされてきたことにたいする違和感とかさなっているようにも、思う。
世界は、「右利き」を標準として、「左利き」を例外として、構築されている。
楽器のギターも、「右利き」を標準としてつくられている。
そんな「違和感」をもっていたぼくは、見田宗介の「空間の比較社会学」で展開される「右の優越」、そしてその逆転の「左の優越」の事例を興味深く、なんども読む。
見田宗介は、上述のような「右の優越」ということにたいして、逆転の事例が少なくないこと、つまり「左の優越」があることを示し、そこに彩られた意味をとりだす。
例えば、ケニアの諸族においては、日常の俗的な領域で「右」が優越するのにたいして、祭祀や聖的な領域では「左」が優越する。
日本語の「ひだり」については、つぎのように光があてられる。
日本語の「ひだり」という語は、南面すると東が左にあるので「日(ひ)の出(だ)る方(り)」であるという大野晋氏の仮説がよく知られているが、民間の言い伝えでは、左は「火垂り=霊垂り(ヒダリ)」であるという。火は霊であった。それは「実気=身気(ミギ)」、「実のある方」としての右と、対照されている。
見田宗介「火の空間ー空間の比較社会学」『定本 見田宗介著作集X』岩波書店
※上記の一部表記(ルビ)は都合上、原文と異なります
その他、「左の優越」を語る事例を挙げながら、見田宗介は、「左」を不吉なもの、悪しきものなどとする一方で、天のもの、聖のものなどとする感覚の矛盾について、どう解けるだろうかと、この論考の最後でかんがえている。
ぼくにとっては、右の優越と左の優越という事例と、そこにみられる意味論だけでも面白く、ぼくの思考を触発してやまない。
けれど、この論考の最後に提示されるものに、ぼくは深い感動を得るのだけれども、そこはぜひ、興味のある方は直接に、この論考ぜんたいを含めて読んでいただくのがよいかと思う。
あるいは、右の優越と左の優越ということに触発される思考で、独自に、かんがえてみるのも楽しい。