2000年代初頭から半ばにかけて、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたとき、「日本語」にふれることは、ぼくが<ほんらいあるところ>に戻ってくるような感覚を、ぼくは抱いた。
それは、まるで、<ふるさと>に戻ってくるような感覚である。
当時、同僚や友人などと日本語で話すことはあったけれど、週の多くの時間を日本人1人で過ごし、生活と仕事の大半は英語(また東ティモールではテトウン語)であった。
通信環境のこともあり、インターネットで自由に日本語にふれることはできなかった。
西アフリカのシエラレオネのときは、公共の水も電気もないところにいて、もちろん通信も限られており、仕事の隅々まで英語であったから、「日本語」にふれることは、<ふるさと>に戻ってきたような安心感を感じたものである。
じぶんにとっての、いわゆる<ふるさと>とは、「日本語」ではないかと、本気でかんがえていたときもあった。
小説家の村上春樹は、40歳になる前にヨーロッパで3年間ほど、「やむにやまれぬ」滞在をすることになる。
その滞在において、村上春樹は、小説などのほかに、常駐的旅行者としての文章スケッチを継続してつけてゆくことになる。
…僕にとってはその継続そのものの中に、これらの文章を途切れ途切れではあるにせよ書きつづけるという行為そのものの中に、意味があった。流離うヨーロッパの僕は、これらの日本語の文章を媒介として、流離わない日本の僕と心を通じあわせていたのだ。…
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫
このように、日本語の文章を「媒介」として、「日本の僕」と心でつながっていたと、村上春樹は書いている。
「シエラレオネの僕」は日本語に雑誌や書籍でふれることはあっても、しかし逆に、(仕事以外の)日本語の文章が書けなくなってしまった。
仕事へのコミットメントと忙しさは大きな理由であったけれど、シエラレオネで日々出会う出来事に、ぼくは全存在において、圧倒されていたのだと思う。
それでも、日本語の文章を読むとき、ぼくは<ふるさと>に戻ってきたような感覚を感じたことを覚えている。
それにしても、<ふるさと>のような感覚はどのような感覚に支えられていたのだろうか?
まず第1に、ぼくの<身体としてのことば>を取り戻す感覚であるのかもしれない。
「ことば」は、「はじめにことばありき」ではなく(それは「文明世界のはじまり」であったけれど)、原初においては「音」であったはずである。
ことばと身体がひとつのものとしてあるような「音」。
日本語を使うことで、ぼくのなかで幾分か、ことばと身体のつながりが取り戻されたということである。
第2に、日本語で語られる「世界」に戻ってきた感覚であるのかもしれない。
人は外部世界を視るときは、じぶんの感覚とともに、「ことば」を通して視ている。
「ことば」がなければ、「世界」を形づくられる仕方は、ずいぶんと違ったものである。
「日本語の世界」に入ることで、ぼくの周りにひろがる「世界」は、それまで親しんでいた「世界」の様相を帯びる。
第3に、それは「懐かしさ」の感覚であるかもしれない。
懐かしさは、その本質において、<ふるさと>に戻ってくる感覚である。
<ふるさと>とは、そこを離れる者たちによって感覚されるものである。
地元を離れて東京に行った者が、地元を<ふるさと>と感覚する。
同じように、日本語を離れる者が、日本語を<ふるさと>として感覚することになる。
そんなことをかんがえるここ香港では、しかし、そのような鮮烈な感覚はない。
香港のいろいろなところに「日本」が存在しているからかもしれない。
以前にも増して、インターネット上で、「日本語の世界」を自由に旅することができるからかもしれない。
日本語の電子書籍で、すぐに日本語の書籍を読むことができるからかもしれない。
あるいは、海外で長く住んでいるうちに、英語がぼくの身体と、いくぶんか融合しているのかもしれない。
さらには、「日本の僕」を超えてゆくようなところに、じぶんが解き放たれているからかもしれない。
そのような<地点>から、日本語が<ふるさと>ではないかと感覚した、シエラレオネと東ティモールの日々が、懐かしく思い出される。