ひろい空に「飛行機」がとびたってゆく風景というのは、ぼくにとって、特別なものでありつづけてきた。
日本にいるときは日常で「飛行機」を見た覚えはあまりないのだけれど、海外に住んでいるときは、よく見てきたし、今でもよく見る。
昔の人たちが<鉄道>を見てそこに込めたであろう「想像力の飛翔」のようなものを、ぼくは<飛行機の飛び立つ姿>に託してきたのかもしれないと、ときどき思う。
飛行機の行く先に、<未知なる世界>が放つ、あの、魅惑と憧憬と畏れのようなものを、想像のなかで感じてきたのかもしれない。
ここ香港では、日々、青い空に飛び立ってゆく飛行機、あるいは夜の空を、光を明滅させながらゆっくりとすすんでゆく飛行機を見る。
香港国際空港の近くにいなくても、空が晴れわたる日には、あらゆる方向に飛行機が飛び立ってゆく姿が目にはいる。
「香港」という、このコンパクトな土地が、アジアにおけるひとつの大きなハブとして機能している風景だ。
空を見上げていなくても、「音」が、飛行機が飛び立ち、あるいは飛行機が着陸態勢に入っていることを伝えてくる。
思えば、海外に住んできたところでは、いつも、ぼくの目と耳には、飛行機があった。
ニュージーランドのオークランドで、仕事場に向かって歩いているとき、ぼくはオークランドの大きな空に、飛行機を見た。
大学を休学して、ニュージーランドに来たぼくは、「世界」に飛び立ちたかったのだ。
その「世界」のひとつ、オークランドにいながら、しかし、ぼくの衝動は、さらなる「世界」へと向けられてもいた。
また、西アフリカのシエラレオネは、状況は複雑であった。
内戦終結後のシエラレオネにいたとき(2002年~2003年)は、さまざまな飛行機やヘリコプターが、行き来していた。
国連のもとに動く部隊、国連の小型機やヘリコプターなど、新しく歩きだしたシエラレオネでは、人も物資も、忙しく行き来していた。
東ティモールにいたとき(2003年~2007年)も、新しく歩きだした東ティモールを、いろいろな人たちが行き来していた。
事務所の近くはヘリポッドであったし、旅客機は毎日一便で、インドネシアのバリを定刻で出発すれば、いつも決まった時刻に、首都ディリに到着した。
いつもの時刻が来ると、旅客機の音が、平和なディリ市内に鳴り響き、人びとの到着を知らせた。
ぼくは人の出迎えでよく空港に行ったから、そのときの様子をよく覚えている。
このような日々に、ぼくの目と耳は、想像力の風にふかれながら、ひろい空へと散開していった。
なお、東ティモールのディリ騒乱(2006年)の際には、飛行機がやってくる「音」は、とりわけ特別なものであった。
昼間からディリ市内で銃撃戦がつづき、ぼくの耳にも銃声がなりひびいていた。
政府は事態を収拾できず、オーストラリアを含む他国に協力要請を出した。
同日、オーストラリア軍機が、ディリ上空を舞う「音」が、ぼくの耳にとどく。
これで、事態がある程度落ち着くだろうと、ぼくは安堵したことを覚えている。
そして、今日も、ここ香港にひろがる空に、いくつもの飛行機が飛び立ってゆくのを、ぼくの目と耳がとらえる。
この文章を書いている間にも、遠くで、飛行機の「音」が聞こえている。
海外では、いつも、ぼくの目と耳には飛行機があった。
ぼくはそこに、いろいろなものを託し、幻想し、想像力を解き放ってきた。