コラム「おとなの小論文教室。」を「ほぼ日刊イトイ新聞」で書いている山田ズーニーが、「Lesson 880」のコラムで、下記のタイトルのもとに書いている。
おもしろい視点であり、その詳細については山田ズーニーの「ことばの世界」へと足をふみいれていただくのがよいかと、思う。
「書いて疲れる時は、どこか嘘をついている」(そのコラムの内容ではなく)を目にして、ぼくの頭の中に浮かんできたのは、思想家であった吉本隆明の「疲れ」である。
山田ズーニーと吉本隆明がつながっているわけでもなく、このコラムの内容と吉本隆明の書くものがつながっているわけでもなく、ただ、タイトルを見たときに、ぼくの頭の中の「回路」で、つながっただけである。
つながっているのは、「ことば」や「かんがえること」(またそれらを書くこと/読むこと)と「疲れ」のことである。
吉本隆明は、著作『宮沢賢治』(ちくま学芸文庫)の「あとがき」のなかで、おおよそ、つぎのようなことを書いている(と記憶している)。
この著作の執筆においては、どんなに仕事で疲れていても、夜、もどってきては、すーっと、その世界にはいっていける。
宮沢賢治の世界やことばは、そのようなものであると。
そこは、吉本隆明にとって、「疲れ」が解き放たれてゆくところ/解き放たれてあるところであったのだ。
ぼくは、このことを、真木悠介(社会学者の見田宗介)が、朝日カルチャーセンターの「宮沢賢治」にかんする講義で語るのを聞いて、知った。
じぶんが書きたいこと/読みたいものの方向づけをしてゆく際に、つまり<書くこと/読むことの方向学>としてかんがえる際に、吉本隆明が語るところは、ひとつの、ある方向性を指し示している。
どんなに疲れていても、いつだって、ぼくたちが入っていきたくなる「ことば」や「かんがえること」の世界。
そしてその「世界の入り口」をとおる足取りはかるく、また歩いてゆくと、じぶんが解き放たれてゆくようなところ。
言い方を換えれば、ことばがことばでなくなり、<じぶん>がひらかれてゆくところ。
見田宗介(真木悠介)は、名著『宮沢賢治』(岩波現代文庫)に「現代文庫版あとがき」で、つぎのように書いている。
宮沢賢治、という作家は、この作家のことを好きな人たちが四人か五人集まると、一晩中でも、楽しい会話をしてつきることがない、と、屋久島に住んでいる詩人、山尾三省さんが言った。わたしもそのとおりだと思う。
<近代>という時代が成熟し、解体し、その彼方までも、この作家は「古くなる」ということがないのはどうしてか、という問いひとつをとっても、話はつきることがない。…
見田宗介『宮沢賢治』岩波現代文庫
「会話(話)はつきることがない」とは、「疲れない」ということでもある。
そのような<方向性>に、ぼくたちは、<じぶん>をひらいてゆくことができる。