ニュージーランドの国道を歩いて南下していると、横を通り過ぎていく車が、ぼくの前方数十メートルのところにとまる。
ぼくは歩きながら、やがて、車がとまっているところに、たどりつく。
車の窓越しに、運転をしている人か、助手席にいる人が、ぼくに(英語で)声をかけてくれる。
「どこまで行くの?よかったら乗っていく?」
ぼくは、「ノー、サンクス」を伝え、「今、ニュージーランドを徒歩縦断しているんです」と、簡単に説明を加える。
驚きの表情を見せながら、彼(女)らは、ぼくに励ましの言葉を投げかけてくれる。
やがて、車はふたたび、ゆっくりと走り出し、走り去るときに、クラクションかライトで、もう一度、ぼくに励ましの合図をくれる。
そんなとき、自然と、ぼくのなかに、感謝の気持ちがあふれてくるのだ。
1996年、ぼくはニュージーランドにいた。
ワーキングホリデー制度で、ニュージーランドで暮らしていたのだ。
暮らしながら、ぼくにひらかれた計画は、ニュージーランド徒歩縦断。
アウトドアの雑誌を読んでいるときに、チャリティを兼ねながら、それを成し遂げている人がいるのを知って、ぼくの心が揺り動かされたことが、きっかけのひとつである。
せっかくだから「何かしたい」という気持ちに点火されるように、ぼくのなかで静かな炎がもえだしたのである。
そうして、ぼくの旅は現実化していく。
ニュージーランドの北端から、ぼくは一歩を踏み出した。
北端から南下していくなかで、ぼくが予測していなかったのが、「国道」を歩かなければいけなかったこと。
国道はいわゆるふつうの道路なのだけれど、それは「ハイウェイ」でもあって、歩くぼくの横を、車が猛スピードでかけぬけていくことになる。
ニュージーランドの自然のなかを静かに歩くことをイメージしていたぼくは、ぼくの真横を通りすぎていく車に、安全面をふくめ、それなりに気をつかわなければいけないのだ。
けれども、そんな状況のなかに、さらに、ぼくが予測していなかったことが起きていく。
それが、冒頭のように、ぼくの横を通りすぎていく車が、毎日、何台も何台も、とまってくれるのである。
そして、ぼくに、「乗らないか」と声をかけてくれる。
ただ「歩いている」ぼくを、だれもが、助けようとしてくれる。
ぼくは「歩いている」から、お断りすることになるのだけれど、だれもが、「励まし」をぼくに与えてくれる。
ただ歩く日々のなかで、そんな「励まし」に生かされているように、ぼくは思わずにはいられなくなるのだ。
ぼくの徒歩縦断は、4分の1ほどで挫折することになったのだけれど、挫折をした日、ぼくを助けてくれたのも、そんな一台の車(乗っている人たち)であった。
ぼくの「生きる」ことの感覚のなかに、この体験が埋め込まれている。
助けられながら、生きている。
見ず知らずの、旅人であるぼくを、助けてくれる人たちがいる。
世界は、ぼくたちが思っている以上に、<やさしさ>に充ちている。