思想家・武術家の内田樹が、「自分の個性を知る」ということは、ほんらい「消去法」的な作業なんだ、ということを語っている。
自分の個性を知ることは消去法によってなんだ、という見方・考え方を支えるものとしては、内田樹が語る、じぶんを「マッピング」する視点を見ておく必要がある。
著書『疲れすぎて眠れぬ夜のために』において、内田樹は、<じぶんがどこにいるか>ということを、時間軸と空間軸それぞれにおいて、「マッピング」すること(=「地図上のどの点に自分がいるかを特定すること」)の方法を語っている。
「今・ここ・自分」というところを離れて、想像的に上空に飛翔し「鳥の眼」でじぶんを見下ろす。
これを「空間的なマッピング」とともに、「時間的なマッピング」としてもおこなう。
「時間的なマッピング」は、内田樹が言うように、じぶんの「前史」を見通すということである。
この視座および視点の置き方は、ぼくもじぶんの方法として使ってきたものであり、ぼくの「時間的なマッピング」は、じぶんの生の時間を超えて、極めて長い時間軸をとっている。
このような<じぶんの時空間マッピング>において、じぶんを括弧に入れて、「じぶん」を理解してゆく。
じぶんの「ものの見方や考え方を絶対視する人」=「マッピングする知的習慣を持っていない人」だと、内田樹は書いている。
「じぶん」は、「じぶんはじぶんだから」というように言い切れない仕方で、つまり<時空間>の網の目のなかにおける<じぶん>として成り立っているから、「マッピング」をすれば、じぶんのものの見方や考え方は相対化されてゆくことになる。
だから、<じぶん>というものをほんとうに生きていこうと思えば、<時空間のマッピング>のなかで「じぶん」を理解し、そこから、「消去法」でいろいろな条件や状況などを削ぎ落としてゆくことが必要となってくる。
こうして、最初に挙げた、内田樹のことばに戻ってくることになる。
「自分の個性を知る」というのは、ほんらい「消去法」的な作業なんです。
自分たちの生きている社会の成り立ちを「勉強」することによって、ある世代、ある地域集団の全体にのしかかっている「大気圧」を認識できた人間だけが、それを控除した後になお残っているものを、自分の「個性」として認知できるのです。…
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫
内田樹はさらに、個性的であるということについて、それは、それぞれの時代の流行や出来事などの「正史」を構成してゆく「記憶の共同体」への住民登録を求めないということであると、つづけて書いている。
…頭にぎっしり詰め込まれた「偽造された共同的記憶」を振り払い、誰にも共有されなかった思考、誰にも言えなかった欲望、一度もことばにできなかった心的過程を拾い集める、ということです。
これは徹底的に知的な営みです。メディアでは人々が「個性的に」ということを実にお気楽に口にしていますが、「個性的である」というのは、ある意味で、とてもきつことです。…
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫
ぼく自身の<時空間マッピング>は、このように書く内田樹やぼくの尊敬してやまない見田宗介などの、ほんものの知性たちから学ぶことで支えられてきた。
そして、20代の半ばから日本を離れ、異なる社会とそこの時間の流れのなかに「身」を置いてきたことが(そして、そこに「身」を置きながら、想像的に上空に飛翔したことが)、ぼくにとっての方法とすることができたようにも、思う。
生まれてからぼくのなかにインストールされてきた「プログラム」が、異なる社会で生きてゆくなかで、いろいろな場面で、互換性・適合性(コンパティビリティ)の問題を起こし、ときに誤作動し、(生きることの)「ひっかかり」を日々つくってゆく。
そのような「ひっかかり」に立ち止まっては、考えて、あるいは「マッピング」をしてみて、ぼく自身のなかに組み込まれている「プログラム」は相対化されていくばかりだ。
そうして、ぼくの「プログラム」は絶対的なものなんかではなく、特殊なものだと知り、それでも、そのなかに、かすかに読み取ることのできる「個性」を見つけたりする。
そこで「個性を知る」という過程は、やはり、「消去法」なんだと、ぼくは思ったりする。