思い出は、ふとしたときに、やってくる。
プルーストの作品における「紅茶にひたされたマドレーヌ菓子」の味が過去の記憶をよびもどすように、それはたとえば、「新鮮なライム」のみずみずしさとして、ぼくのところにやってくる。
けれども、プルーストの過去の記憶のように、その味の詳細な記憶はなく、新鮮なライムを飲み物のなかにしぼり、それを口にしたときに心を動かされたことを覚えている。
あるいは、ぼくがいた、「あの」空間の雰囲気が一緒になって、思い出・記憶のファイルにとじられている。
2002年の終わりから2003年の前半にかけてのこと、ぼくは西アフリカのシエラレオネにいた。
NGO職員として、当時、紛争が終結して間もないところで、支援活動に従事していた。
事務所は、首都フリータウンの事務所を含め、シエラレオネ内に3箇所あり、ぼくはそれらを行き来しながら活動していた。
それなりにシエラレオネの生活に慣れたころの、ある日曜日(だったと思う)に、一緒に働いていたシエラレオネの同僚が、ぼくを家に招待してくれた。
生活に慣れたころとはいえ、生活も仕事も、とてもチャレンジングな日々が続いていた。
そんな折の、つかの間の休息。
招待された家で、とくに何かをするわけでもなく、会話を交わし、飲み物をいただく。
すると、同僚は「ライムは欲しいですか?」とぼくに尋ね、そうですねと応えると、「ちょっと待ってて」と部屋を出ていく。
ちょっとして戻ってきた同僚は、ライムを手に戻ってきて、それをぼくに渡してくれる。
どうやら、家の庭に育っているライムを取ってきてくれたようだ。
そして、その鮮烈なみずみずしさと、新鮮な香りにぼくは、心身揺り動かされることになる。
15年以上経過した今も、そのときのことが、暖かい思い出として、思い起こされる。
新鮮なライムは、とりたてて珍しいものではない。
家庭菜園をしていたりすれば、いつだって、菜園から摘み取り、新鮮な味と香りを楽しむことができる。
「過去の記憶」というものは、時間の経過ととに<純化された記憶>となることもあるから、「新鮮なライム」の記憶は、ぼくのなかで、相当に純化され再構成されているのかもしれない。
そう思いながら、しかしそれだけではなく、あの時、あの場、そしてそこに置かれたじぶんという状況のなかで、ぼくの心身の深いところに<思い出・記憶の旗印>を立てたのだとも思う。
シエラレオネに生きる人たちにとって日常が戻ってきたとはいえ、人びとの心のなかには深い闇があり、また目に見える形では、たとえば、フリータウンの街の中にもまだ避難民キャンプがあって、紛争が残したものをむきだしにしている。
ぼくはといえば仕事は四方八方において困難がつづき、あるいはアフリカの強烈なマラリアにかかったりと、都会の便利さに慣らされてきた身体はサバイバルモードに入ったりすることもある。
そのようななかに置かれていたからこそ、「新鮮なライム」は、生ということの新鮮さをいっそう感じさせるものとして、ぼくにとってとてもとくべつなものであったように、思う。
そして、招かれた部屋のしずかな雰囲気となんでもない会話が、あたたかい思い出として、今も生きている。
それだけでも、あの時、あの場所にいてよかったと思えたりする。
ぼくたちは、どの時代の、どこにいても、そのような、なんでもない「とき」と、それからあたたかい思い出に、心の火を灯されるようにして生きる。