ずっと昔のこと、まだ学生の頃だったと思うけれど、文章を書く際に、文章を「句読点」で短く切ってゆくことを指導/勧められたことがあって、そのことが「理解できる部分」と「納得できない部分」が混在しているような感覚を、ぼくはその後もつことになった。
そのような、どこか納得しない気持ちが晴れたのは、真木悠介のことばにおいてであった。
真木悠介は、鳥山敏子との対談(1993年頃の対談)において、「メディアのことば」に触れて、つぎのように話をしている。
句読点という話でいうなら、いまのメディアのことばというのは、句読点をとにかく要求されるんだ。新聞の文体というのは短くないとだめなんだ。…切れるところで切らなきゃだめだと。そういう圧力があるんだ。現代の、社会のなかにね。
…ぶつぶつ無差別に切ってしまう。わかりやすくなるように見えて、だいじなことは伝わらないんだ。ひっかからないから。……ひっかかることがだいじなんだ。…ほんとにいい悪文というのがありますよね。マスコミは一律に悪文を拒否してしまう。マスコミの文章は、呼吸の浅い読者に合わせてあるんだ。急いでいる人に。
真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること』太郎次郎社、1993年
この対談の会話を読みながら、ぼくのなかで、すーっと、あの、どこか納得できない気持ちが晴れたことの感覚を、今でも覚えている。
「短い文章」が悪いということではなく、さまざまな文章たちを一様/一律に(無差別に)区切ってしまう仕方に問題があり、またその背後にながれる「社会の圧力」は問われるべきところである。
そして、ぼくが気にかかったのは、「呼吸の浅さ」ということであった。
文章の「短い/長い」が、「呼吸の浅い/深い」ということと連関している面が少なからずあるだろうということに、ぼくの感覚は「納得」をしたのであった。
(経済成長を最優先とする)「社会」のあらゆる局面において求められるのは、分単位で動く世界のリズムに合う「短い文章」であり、それぞれの個人の「だいじなこと」ではない。
そのような「圧力」のなかで、(教育の場を含めた)社会のすみずみまでに、短い文章が求められてきたことが、ぼくはわかるような気がしたのだ。
だからといって、「長い文章」が必ずしもよいということではなく、「短い文章/長い文章」を時と場合によって<自由自在>に行き来できることが大切である。
あるいは、もう少し先をいけば、「短い/長い」という長さによらずに、個人がそれぞれに、<じぶんの文体>を生きていけるようなところがくるとよいと、ぼくは思う。
論理の飛躍だと思われるかもしれないけれど、社会における<多様性・ダイバーシティ>は、そのようなところとも関わってくるだろう。
また、それは、「呼吸の深い」生き方や働き方「も」、とくべつなこととしてではなく、ひとつのあり方とされることでもあると思う。
この対談が行われた1990年代前半と比較してみると、現代の人たちと社会は、日々の「呼吸の浅さ」にたいして、いろいろな仕方で対処しようとしてきている。
近年(ふたたび)注目されてきた「メディテーション」や「ヨガ」などは、その本質において、「呼吸をととのえる」「呼吸をゆっくりと意識しながらする」ということでもある。
このブログを「文章の短さ」ということから書き始めたけれども、それは呼吸の浅さ/深さということであり、それは生き方や働き方とも密接につながってくるものである。
そのような「ぜんたい」が、太い線としては、あらゆる変遷を遂げてきているのが「現在」であり、ぼくたちは、そこにさまざまな気づきを見つけ、さまざまな方法とあり方をインストールしてゆくことができる。