最近、「虹」を見ましたか?
この問いを、たとえば1ヶ月前に問われたとしたら、こう応えていただろう。
「最近は見てないですね。それに、“最近”だけでなく、最後に虹を見たのがいつか、思い出せないですねぇ」と。
そう、最後に見たのが、いつ、どこであったのか、ぼくには記憶がない。
東ティモールであったか、西アフリカのシエラレオネであったか、あるいはそもそも東ティモールとシエラレオネで、ぼくは虹を見たのか。
見たような気もするが、いずれの場所にいたのも10年以上前のことで、はっきりと覚えていない。
それから、今ぼくが住んでいるここ香港で、虹を見たかどうか、この記憶も定かではない。
なにはともあれ、先日、ここ香港で、ぼくは「虹」の風景に遭遇した。
最後に虹を見たのが、いつ、どこであったか覚えていなかったからか、ぼくは、すっかりと、その風景に心を揺さぶられたのだ。
じぶんの内面の奥深くを揺さぶる<虹>であった。
それにしても、最近、都会で虹を見ることは減ってきているのではないかと、そんな仮説をたててみる。
もし虹があまり「現れなくなっている」とすれば、それは、「人間」の側の問題だろうか、あるいは「(自然)環境」の側の問題だろうか、さらには「人間と(自然)環境の<あいだ>」の問題だろうかと、ぼくはかんがえてしまう。
「人間」が、現代社会において、さらに自然から切り離された生活をおくるようになったのだろうか。
「自然環境」が、環境破壊や公害などの影響をより受けているのだろうか。
あるいは、上記とも関連して、人間と自然環境との「むすびつき」が弱くなっているのだろうか。
もちろん、ただ、ぼくが見ていなかっただけ、ということもありうる。
ともあれ、ぼくは、ここ香港で、虹を見た。
虹の「色」は、時空間によって、つまり時代と文化によって、その見られる仕方が異なってきたものであり、何色に見られるかは「実際の色」ではなく、人間の「見方」に規定されてきたものである。
Wikipedia(ウィキペディア)は、「虹」の項目において、その発生の科学的説明を含めて、それ相当の解説をのせている。
虹という現象が人を惹きつけてやまないからであろう。
解説の多くの部分が割かれている、虹にかんする「科学的説明」はとても興味深いものである。
でも、それと共に、ぼくは、神話や伝説や物語などに描かれてきた<虹>にも惹かれる。
人びとの心をとらえる<虹>は、人びとに彩り豊かな想像を抱かせる。
大切なことは、虹の発生の仕組み(科学)を知ることと共に、それだけに思考を還元してゆくのではなく、<虹>に感動する感受性とそこから想像力を解き放つことでもあるように思う。
宮沢賢治が、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)と書くとき、それは賢治にとって、ほんとうのことであったと思う。
香港で「虹」の風景に出逢った余韻のなかで、ぼくは、つぎのように書く。
最近、<虹>をご覧になりましたか?