世界で暮らしていくうえでは、「麺をすする音」について一歩立ち止まって考え、じぶんの「麺の食べ方」を定位しておくことである。
日本でも外国からやってくる人たちが増え、「ヌードルハラスメント」(略:ヌーハラ)なる和製英語があることを、ぼくは初めて知った。
Wikipediaでは、「日本人に多く見られる『麺類を食べるときに、麺をすすってズルズル音を立てる』食べ方が、猫舌の人や外国人に不快感を与えるとして慎むべきであるとする主張を示す和製英語」と書かれている。
そもそもは「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」(日清食品)の動画を見ていて、この言葉に触れたのであった。
「麺をすする」のは日本人だけというふうに以前は思っていたのだけれど、ここ香港に住んでいて、「そうでもないな」と実際の生活レベルで体験する。
「日本人だけが…する/日本だけが…だ」と言われる事柄のいくつかは、実際に海外に住んだり旅したりするなかで、必ずしもそうではないはないことを、ぼくは目にしてきた。
その一つが「麺をすする」ということであり、ここ香港で、だれもがというわけではまったくないけれど、外食しながら、ぼくは隣の席に「麺をすする音」を耳にすることがある。
「実証」としては、ぼくの経験上多くは決してないけれど、一度や二度や三度のことではない(ただし、実証研究に耐えるような観察ではなく、あくまでも、ぼく個人の日常観察ですが)。
でも、ここからが、文化考のひとつとして面白いところなのだけれど、ポイントは「環境の前提条件」である。
日本の環境は、まずはじめに、「静かな環境」で(静かに)食べるということへ条件が設定されたうえで、「麺をすする音」が聞こえる。
ところが、たとえば香港では、この最初の条件設定がなしに、ワイワイガヤガヤで食べるという環境があるから、「麺をすする音」は聞こえても、気にならない。
「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」がカモフラージュ音を流すことでノイズキャンセルする一方で、「ワイワイガヤガヤ」の環境は、会話音を自然のごとくに流すことでノイズ自体を無効化するのだ。
そんなちょっとしたことを、ぼくは香港にいながら、文化のはざまで、かんがえる。
ぼくのことで言えば、ぼくが「麺をすする音」を明確に意識しはじめたのは、ニュージーランドに暮らしているときであった。
大学2年を終えて休学し、ワーキングホリデー制度を利用して住んだニュージーランド。
シェアハウスでニュージーランド人たちと共に共同生活をしたり、バックパッカー宿やキャンプ場で過ごしたり、またニュージーランドを旅しながら夕食をご馳走になったりしながら、ぼくは、「麺をすすらない」麺類(スパゲティ)の食べ方を習得し、身につけていった。
おそらく、そこが出発点で、それからも海外の人たちと時間や食事を共にすることがそれなりにあって、ぼくは、日本でも日本の外でも、「麺をすすらない食べ方」をじぶんの食べ方として選んできた。
世界で生きてゆくためには、「麺をすする」食べ方を大切にする場合も、「麺をすすらない」食べ方も身につけておきたい。
時と場所によって「麺をすする/麺をすすらない」という選択ができるように。
「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」(フォークにしては大きいフォークだ)をいつも持ち歩くわけにはいかないし、カモフラージュ音が気になってしまうような時と場所もあるだろう。
なお、ぼくは「麺をすする」食べ方を世界のどこででも通すほどそこにこだわっていないし、また「麺をすする/麺をすすらない」ことをその時々で選択するのも面倒だしと、「麺をすすらない」食べ方を、すっかりと身につけただけだ。
「麺をすする」文化の退行だとある人は言うかもしれないけれど、ぼく一人がやめても、その影響のかけらもなにもないと、ぼくは思う。