これからの人と社会をかんがえているなかで、社会学者の見田宗介先生と「議論を交わしたい」と思っていたことがあって、将来いつかお会いできたら、ぜひお伺いしたいと、準備していた「テーマ」がある。
それは、現代社会が直面する「巨大な闇」である環境問題・資源問題をのりこえてゆく方途としての「宇宙開拓」についてである。
想像以上に宇宙ビジネスが進展してきているなかで、それでもすぐにとは言わずとも、「宇宙開拓」による資源採掘などが、グローバル化の果ての地球(無限でありながらの有限な球体)を救う手立てとなるかどうかである。
そのような「テーマ」を準備していたから、新著である見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)に、このテーマに正面から応答する文章があるのを見つけたときは、嬉しさと共に、そこで展開される論理の明晰さに感嘆の声を心の中であげてしまった。
見田宗介は、「テクノロジーによる環境容量の変更。弾力帯。「リスク社会」化。不可能生と不必要性」(第5章第3節)と題しながら、「テクノロジーの環境容量の変更(拡大)」という方向性を、実際に進んでいる分野として、「二つの方向性」に見ている。
- 外延的(extensive)に環境容量を変更(拡大)する方向:地球外天体への移住植民や資源探索・採取など
- 内包的(intensive)に環境容量を微視の方向に変更(拡大)する方向:遺伝子の組み替えや素粒子の操作など
この内の2番目についても、ぼくは「テーマ」を持ってかんがえているけれど、さしあたって、冒頭で問題としたテーマはこの1番目に該当するところである。
グローバリゼーションにおいて、この「地球」という球体の環境・資源を使い尽くす方向に走ってきた人間は、その地点において、論理的に、この外延的(extensive)/内包的(intensive)な方向性に、テクノロジーの舵をきってゆくことは当然であるようにも思われる。
ぼく自身も「外延的(extensive)」な方向への、つまり地球外天体への方向への、研究や試みやビジネスなどの動きに「関心のアンテナ」を張ってきた。
そんな「関心のアンテナ」もあったから、つぎのように書かれているのを読んだとき、ぼくはハッとしたのであった。
環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念は、経済成長を無限につづけなければならないというシステムの強迫観念から来るものである。あるいは、人間の物質的な欲望は限りなく増長するものであるという固定観念によるものである。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「テクノロジーによる環境容量の変更(拡大)」の方向性は(ひとまずは)続いてゆくだろうし、ぼくは「関心のアンテナ」も引き続き立てておくところだけれども、「考え方の前提」を明るみに出すことを通して、ぼくたちの「思考の癖」を一気に指摘する箇所である。
「経済成長を無限につづける」という強迫観念、「物質的な欲望は限りなく増長する」という固定観念は、現代社会を生きてきたものたちの多くの心身に刻まれているであろう。
どこか疑問や無理を感じながら、しかしどこか離れられないような、そんな観念たちである。
そうして、見田宗介は、つぎのように、つづけて書いている。
…もしそのようなものであるならば、たとえ宇宙の果てまでも探索と征服の版図を拡大しつづけたとしても、たとえ生命と物質の最小の単位までをも解体し再編し加工する手を探り続けたとしても、人間は、満足するということがないだろう。奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう。それは人間自身の欲望の構造について、明晰に知ることがないからである。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
上述の強迫観念と固定観念にうながされるのであれば、、どこまで拡大をつづけても、どこまでも探りつづけても、人間は「満足するということがない」だろうと、見田宗介は書いている。
なお、外延的な環境容量の拡大そのものについては、「コスト・パフォーマンスやカバーしうる資源アイテムの限定性等々からほとんど現実的ではないと思われる」と見田宗介は書いていて、ぼくは「現実的か否か」の議論には、いったんの「留保」をつけておきたい。
それにもかかわらず、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう」という言葉は、外延的な環境容量の拡大が「現実的か否か」の議論をまるでとびこえてしまうように、ぼくの心を、正面から射る。
ほんとうに、ぐさっと、ぼくの心を射る。
宇宙にとんだ視線は、こうして、この「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星」に、また「人間自身の欲望の構造」に、さらには、じぶん自身の「幸福に生きる仕方」に、反転される。