中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』。- けっして「古くない」、日本・日本の組織や集団・日本人を「視る」視点の提起。 / by Jun Nakajima

ある本で、つぎのように論じられている。

 

…海外滞在が長いと出世がおくれる、ということは多くのサラリーマンたちの口にするところである。…本国の中央から遠くにいるということは、マイナスを意味するというのが常識になっており、事実、日本の人事というものがその傾向を充分もっていることはいなめないのである。
 この現場軽視の思想が、現地駐在員の発言権を弱め、彼らの現地生活は腰かけ的な一時しのぎのスタイルを生むのである。…

 

これは、中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』(講談社現代新書、1972年)の一節であり、今から45年以上も前の論考であるにもかかわらず、それはある側面において「今」を分析しているかのように思われる。

もちろん、この45年ほどの間に、グローバリゼーションが進展し、経済社会的に、あるいは企業組織的にも、いろいろな(そして、ときに根本的な)変化を遂げてきてはいる。

現地駐在員の方々の中には、現地生活を一時しのぎではなく、そこに「ミッション」を定めながら、仕事に傾注してきた/傾注している人たちがいる。

また、現在の状況においては、海外滞在が多くの「プラス」を意味していることもある。

そのような変化や個人的な傾注にかかわらず、また冒頭の文章も企業・組織によっては現在の状況とのズレがでていることを考慮に入れたうえで、それでも、「日本社会また組織」という地平からみるとき、中根千枝がこの本で書いていることは、さまざまな点において、「今」の状況をかんがえるための視点を与えてくれる。

 

中根千枝は社会人類学者であり、今でも読み継がれている、中根千枝『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書、1967年)がよく知られている。

この本の「姉妹篇」として、『適応の条件:日本的連続の思考』が書かれている。

ぼくが『タテ社会の人間関係』を読んだのは、大学に在学中の頃であったから、20年ほど前のことになる。

「日本社会」におけるいろいろな疑問を感じていた頃に読んだこの本は、その疑問の背景を、まるで「見方・考え方」にひとつひとつ輪郭をつくることで理解させてくれるような本であった。

 

少し長くなるけれども、目次の全体を下に書いておきたい。

 

【目次】

まえがき
第一部 カルチュア・ショックー異文化への対応
1ー異なる文化の拒絶反応
2ー日本文化(システム)への逃避
3ー表現と実行のあいだ
4ー特定ケースと一般化の問題
5ー日本的システムの強制
6ー日本的信頼関係の敗北
7ー契約に信頼をおく欧米との違い
8ー現地社会への逃避
9ー国内用の異国
10ー外国語の修得と文化の関係
11ー個人差による適応度

第二部 日本の国際化をはばむものー社会学的諸要因
1ー厚い“ウチ”の壁
2ー日本人の社会学的認識
3ー連続の思考・ウチからソトへ
4ー二者間関係における連続
5ー義理人情の分析
6ーもてる者ともたざる者の関係

適応の条件ー結びにかえて

 

「異文化への対応」と「日本の国際化をはばむもの」という、「今でも」本質的なものとして立ち上がる課題にたいして、1970年代初頭という「国際化」のはじまりの時代に、中根千枝は自身の海外経験と「タテ社会」の論理をもって向かい、論を展開している。

一部の記述は当時の状況を反映したものであり、一見すると「古さ」を感じるものである。

しかし、日本企業のより積極的な海外進出などを見ることになった「国際化」の初期の時代だからこそ、現象する問題が先鋭化されて発現することもあること、またそれらを駆動する力学は今でも見られる現象や問題を分析する上で大切な視点を与えてくれることから、「古くない」と言える論考である。

むしろ、それは、海外の日系企業において変わってゆく形態や施策や試みや努力などの底流において、今も生きつづけている力学を論じていると、ぼくは読む。

こうして、冒頭の状況に戻ってくる。

底流に生きつづけている力学としての「タテ社会」は、つぎのように書かれている。

 

…「タテ」のイメージは、自己中心的な社会認識と異なるようであるが、いずれもヒエラルキーの頂点あるいは自己という基点を設けて、そこからの距離によって他の人々、集団を位置づけるという点で同じである。いずれも異質の存在、機能というものを考慮にいれないところに特色があるといえよう。
 タテ組織の頂点、あるいは自己(集団)を基点とする思考方法によるイメージ化は、さらに、中央から地方へというスキームに結びつくものである。これは、本書のテーマからいえば、本部と現場、本社(本省)と海外駐在員ということになる。

中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』講談社現代新書、1972年

 

この力学において、「日本人全体、そして日本の中枢の人たちは、まだ本当にソトの世界を理解しようとしていない」のであり、このことは「『ソトに出る者』は相対的に低い地位におかれてきたという、社会学的なシステムと密接に関連している」と、中根千枝は書いている。

繰り返しになるが、現在における、海外における日系企業の動きにおいては、さまざまな動きと試みによって、「タテ社会」から生じる問題の克服、あるいはそれ自体の構造変化をねらうものが見られる。

けれども、と前置詞を置いた上で、ぼくは、この現代においても、いろいろな実際の場面で、ぼくは、中根千枝の指摘するような状況を見て取るのである。

 

この小さな本(新書)には、そのような指摘と分析、そしてときに厳しいコメントが詰まっている。

20年ぶりに中根千枝の本をひらき、その20年のほとんどを海外で仕事をしてきた経験を本の内容に重ねてみながら、ぼくはここ香港で、日本・日本の組織・日本の集団・日本人について、いろいろと深くかんがえさせられる。