「オウム真理教」の刑執行のニュースは、ここ香港を含む海外メディアでも、取り上げられた。
ニュースを読みながら、ぼくは「あの日」を思い出していた。
「あの日」、ぼくは、大学の授業があって、午前の少し遅めの時間に家を出た。
東京の(当時の)東横線沿線に住んでいて、東横線で渋谷に出て、渋谷から大学のある巣鴨に向かうのが、ぼくの通学路であった。
遅めに家を出て、いつもと変わらず東横線に乗って、渋谷に出たのだけれど、東横線の渋谷構内がいつもとは異なる雰囲気につつまれている。
東横線は日比谷線につながってゆく線もあり、東横線構内の掲示板のオレンジ色の文字が、日比谷線のダイヤの乱れを伝えていたのだ。
その雰囲気が、ときおり起こるダイヤの乱れとは異なっていて、緊迫感が伝わってくる。
ぼくは掲示板を見ながら、緊迫した雰囲気の中、山手線に乗り換えて、巣鴨に向かった。
やがて「事件」を知り、それが、東横線からつながる「日比谷線」で起きたことに、人ごとではない、なんとも言い難い気持ちを、ぼくは抱いていた。
「あの日」から20年以上が経過し、時代と状況の変遷を感じながら、しかし、人と社会における「問題の本質」はあまり語られず、いまだに大きな問題として残っているように感じる。
心理学者の河合隼雄と小説家の村上春樹の「対談」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)は、「あの日」と同じ年、1995年の末に行われ、「問題の本質」に、直接に、またその他の一見すると関係のないような角度から触れたものであった。
何度読んでも、学ぶことがあり、また考えさせられる。
村上春樹は、「オウム」のつくりだした「物語」のなかに、「稚拙なものの力」を見て取りながら、「稚拙」だから無意味だと切り捨てることはできないと、この問題に正面から対峙している。
村上 …ある意味では「物語」というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)が僕らのまわりで、ーつまりこの高度資本主義社会の中でーあまりにも専門化し、複雑化しすてしまったのかもしれない。人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない。僕らはそのような物語のあり方をもう一回考え直してみなくてはならないのではないかとも思います。…
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
対談の内容に付された、このフットノートに対して、河合隼雄は、「稚拙な物語」というよりは「素朴な物語」と言う方がよいだろうとしながらも、基本路線において大賛成している。
河合 …「素朴」というのも、素朴であるほどいい、と言うわけでもありません。素朴な話を評価する規準は何なのかが問題なのだと思います。…私は「オウムの物語」の問題点は、素朴な物語に、現代のテクノロジーという、まったく異質なものを組み込んで物語を作ろうとしたことだと思っています。
「物語のあり方をもう一回考え直す」ために、私としてはこれまで「昔話」や「児童文学」を取り上げてきました。大人どもから見れば、まさに「稚拙」に見える物語が、どれほど深い意味を持っているかを示そうとしたつもりです。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
あの頃を思い出して、ぼくは、ぼくの内面を問う。
「あの日」、あの頃、ぼくの内面では、いろいろと闘っていたのだと、あとで振り返ってみて、思う。
河合隼雄は、村上春樹と「コミットメント」について触れながら、「…コミットしなくちゃならない、ということに気がついた青年たちを、オウムが引き込んだのですね、『ここにコミットしなさい』『答えはありますよ』と」、語っている。
ぼくは、「コミットしなくちゃならない」という気持ちをひとまず<海外>に向け、翌年にはニュージーランドで過ごし、そこから国際関係を学ぶことを契機として「途上国の開発・発展研究」へと、コミットメントの対象を定めていった。
そこに「答え」があるとは思わなかったけれど、そこから多くの「問い」、そして学びと行動が生まれた。
それは、ぼくにとっての「物語」であった。
そうしてまた、「物語のあり方をもう一回考え直す」というところに戻ってくる。
「『物語』というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)」の、「素朴」な原層とは、を考える。
そこでぼくの中で立ち上がるのは、「ただ生きることの歓び」という幸せの原層である。
それは、だれしもがもつ<幸福感受性>(見田宗介『現代社会はどこに向かうか』岩波新書)に支えられる、幸せの原層である。
<ただ生きることの物語>とは、どのようなものだろうか。