海外に住んでいて、例えばレストランに招待され、「何を食べますか?」と聞かれる。
あるいは、家にお邪魔していて、「何をしたいですか?」と聞かれる。
もし、あなたが、このような状況であれば、どのように応答されるだろうか。
この質問文は、厳密には、「あなたは…?」というように、「あなた」が主語として話される。
「あなた」の意向が問われている。
当たり前と言えば当たり前だけれども、日本で生まれ育ってきた人たちにとって、慣れない内は、応答するのに難しかったりする。
応答すること自体が難しいというよりは、適切に応答することが難しい。
日本であれば、応答は、例えば、レストランの設定では、「何でもいいですよ」とか、「何でも結構です」とか、「お任せします」とか、「同じもので」とかであったりする。
それは、日本であれば(あるいは海外でも日本的な場であれば)、ふつうの応答である。
けれども、海外(場所と状況によっても違うのだけれど)においては、上述の通り、「あなた」の意向が問われている。
だからといって、「私は…食べたい」「私は…したい」という応答は、なかなか出てこなくて、より意識的に言葉を表出することになってしまう。
心理学者の河合隼雄は、自らの体験をベースに、これらのことを語っている。
…たとえば、私の子どもがスイスの幼稚園へ行っておりましたので体験したことですけれども、幼稚園に子どもが入ってくるでしょう。そしたら、先生が待っていて、入ってくる子に、「きょう、何したい?」と聞くんですね。その子が「ぼく、ブランコする」と言ったら、「はい、ブランコのほうに行きなさい」。その子が「絵をかきたい」と言ったら、「はい、絵のほうに行きなさい」と、こういうふうに言うわけです。
ところが、その先生が言われるのは、私の子どもというのは「何をしたい?」と聞いてもなかなか答えないんですね(笑)。「何したい?」と言っても、顔を見てニコッとしているだけです。…
河合隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社+α文庫、1999年
これに続けて河合隼雄が語るように、日本では、「何したい」と言わないほうがよくて、「お任せします」というのは非常にうまくできた言葉として機能する。
だから、レストランにおいても、海外の人に「何にしますか?」と聞かれて、「自分はこれにします」と、すぐに言えるように、日本人は訓練されていない。
…われわれというのは、大人になっても、いつも「お任せします。どうぞ、どうぞ」とみんなが言うて(笑)、何や知らん間にきまっているという……。非常にうまいと思うのですが、「何をしたい」と言うてないんだけれども、全体の中で、結局、自分のしたいことができるようにわれわれは訓練されている。
河合隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社+α文庫、1999年
一個の個人と一個の個人との関係というより、河合隼雄が挙げるように例えば「おまえとおれの仲じゃないか」に見られる二人が一緒になってしまうような人間関係ができあがっているのが、日本的であったりする(河合隼雄は、「母性的人間関係」ということで論理を展開する)。
だから、「私は…食べたい」「私は…したい」という応答は、実際の状況において、なかなか出てこなかったりするのである。
海外に住みながら、慣れを味方につけたぼくは「私は…食べたい」「私は…したい」という応答をするのだけれど、ときに日本的な応答をしてしまったりすることもある。
レストランで海外の知り合いが、ぼくに「何食べたい?」と聞いてきたときに「何でもいいよ」とぼくが答えたりすると、場の流れが滞ってしまったりする。
文化と文化の<はざま>では、いろいろなことがあって、それらは鏡のように、「ぼく」を映し出している。