「はたらき方」の語られ方で、見逃されているもの。- 糸井重里が光をあてる「よく見たらおもしろい例」。 / by Jun Nakajima

このブログでもときおり取り上げている、コピーライターの糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称:「ほぼ日」)の「今日のダーリン」。

「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの」であり、ぼくも「ほぼ毎日」ブログを書いていることから、ぼくは(勝手に)一緒にマラソンを走っているような気持ちになることがある。

その「今日のダーリン」の、2018年7月25日号では、「はたらき方」の語られ方について、書かれている。

より厳密には、「語られ方」として、<見逃してしまっている語り>のことである。

見逃されているのは、「よく見たらおもしろい例なんか」である。

 

こうして、糸井重里は、「事業として農業をやっている人」へと、視野を広げてゆくことで、「はたらき方」の語られ方について、面白い視点を投じている。

挙げられているのは、「ほぼ日刊イトイ新聞」のショップでも売られているトマト(ジュース)をつくっている、北海道余市の中野さん一家の「よく見たらおもしろい例」。

 

「並大抵でない工夫と手間をかけている」トマトづくりについて、糸井重里ら一行が取材に行ったときに、トマトづくりに加え、糸井重里はつぎのような問答を展開したという。

 

…ふと、余計なこととは思いながら、「トマトって、冬の間は雪で仕事になりませんよね?」と、当然といえば当然すぎるようなことを訊きました。「はい。なんにもやることはないですが、わたしたちは、冬がたのしみなんですよ」と思わぬ答え。「あ、そうですか。別の仕事が待ってるとか?」「いやぁ、ほら、冬はスキーですよ。あちこち行きます。あとは、温泉めぐりです。たのしいんです、冬は」つまり、遊んでいるということです。
…だれに文句を言われる筋合いもないですよね。会社員には、そういうことは無理だとか言われても、みんながみんな会社員じゃないんだし、みんながみんが一年中、毎日のように平均的に仕事をしているという義務もいらないんですよね。…はたらくということは、食える分ほしい分だけ稼いだら、あとは休もうが遊ぼうが自由に決められるはすですよね。中野さんとの会話、ずっと忘れてないんですよ、ぼくは。

糸井重里「今日のダーリン」2018年7月25日『ほぼ日刊イトイ新聞』

 

確かに、忘れられないような会話だし、「よく見たらおもしろい例」である。

「はたらき方」の議論は、往々にしてその議論の視野と前提を狭めてなされていることを、このような例を鏡とすることで、逆に見せてくれるようなところがある。

もちろん、見田宗介の言うように、貨幣経済と都市の原理の、社会への全面化を<近代>とする見方においては、「都市」における企業の会社員の「はたらき方」が「問題」として浮上し、中心的なこととして語られることは、けっして根拠のないことではない。

忘れられない、中野さんとの会話が示してくれるのは、「はたらく」ということにおいても、あるいは「生きる」ということにおいても、もっと自由に決めることのできる可能性の空間があることの予感である。

 

このような可能性の空間は、「事業として農業をやっている人」だけでなく、それは、たとえば、日本の外に視野をひろげてゆくことで見えることもある。

バックパッカーでアジアを旅していたとき、ニュージーランドに住んでいたとき、西アフリカのシエラレオネや東ティモールで支援活動をしていたときにぼくが出会った人たちは、生きてきた個人史のぜんたいが「ふつう」ではなく、はたらくことの経歴や仕方も「おもしろい例」であった。

そのような人たちに、そのような「おもしろい例」にいつも触れることは、「はたらく」ことにおいても、「生きる」ことにおいても、もっと可能性の空間はひらかれているのだとかんがえる経験的な根拠をぼくに与えてくれた。

75億とおりの「はたらき方」や「生き方」があってもよいのだということ。

画一化される時代は面白くないし、それはすでに崩れはじめている。