満月の日の翌日も、ここ香港では「月」がその月あかりを、いっぱいに、地上に向けて放っている。
ぼくのとても深いところに届く光だ。
火星も月の横で、その存在感を示している。
道では、幾人もの人たちが歩みを止めて、「月」を写真におさめようと、携帯電話をとりだし、月の方向に携帯電話をかざす。
ぼくも、歩みをゆっくりしながら、月あかりに身体をさらし、また、歩みを止め、写真を撮っている人たちを見やる。
月の写真を、携帯電話のカメラでおさめようとすると、カメラのレンズで捉えた「月」と、ぼくたちの目のレンズで捉えた<月>の異なりに、もどかしさのような感覚をおぼえる。
携帯電話のカメラが捉える「月」は、とても小さく、色合いもまったく変わってしまい、神秘さの雰囲気が霧散してしまう。
それでも、なんとかおさめようとして、いつまでもうまく定まらない焦点をあわせ、ボタンを押し、写真を撮る。
カメラでおさめようとすればするほどに、どこまでも、すりぬけていってしまう月なのだ。
もちろん、適切なカメラとレンズで月の被写体をおさめれば別のことであるけれど、ぼくを含め、通りすがりの人たちは、そういうわけにもいかず、携帯電話を天に向けてかざすのであった。
そんな、携帯電話のカメラでは、どこまでも、すりぬけていってしまう月であっても、月あかりに魅せられて、写真のためであろうがなかろうが、人びとが歩みを止める風景に、どこか、ぼくは気持ちがやすらぐのである。
カメラでうまくとれなくったって、それはどうでもよいことで(それぞれに写真の使い道という目的はあるのだろうけれど)、何はともあれ、月を楽しむということだけで、最初の目的(たとえば「写真におさめて、…する」など)さえも書き換えてしまうような、シンプルな経験をぼくたちはもつことができる。
<月を楽しむ>ということにおいては、香港では「中秋節」がある。
その「中秋節」は、今年は2018年9月24日にあたる。
香港では、すでに2ヶ月以上も前から、はすでに「月餅」が店頭に現れ、中秋節の足音が聴こえ始めている。
少し早すぎじゃないかと(毎年のように)思いつつ、やはり、気になって、店頭をのぞいてしまう。
今年はどんな月餅が見られるだろうか。