香港では、店舗やレストランなどの「内装」や「外装」が頻繁に変わる/変えられる。
(いろいろと背景や事情はあるのだけれど/あるのだろうけれど)それにしても、よく変わる。
「転がる香港に苔は生えない」(星野博美)と言われるように、香港はまさしく転がりつづけ、動きつづける。
あるチェーンの飲食店の改装工事が終わって、足を運んでみる。
「以前」とは、まったく様相が変わり、デザインだけでなく、雰囲気も変わっている。
でもぼくが驚いたのは、いつもの週末であれば、ひどく混んでいる店内に、結構空席が見られたこと。
そういうわけで、店内はしずかでもある。
来ている人たちも、以前とは少し異なった人たちのようにも感じられる。
ふと、「環境」は、その環境にマッチするような人たちや振る舞いを引き寄せる、ということをかんがえる。
店内を見渡しながら、そのことが「当てはまる」のかどうかはわからず、「たまたま」だけかもしれないとも思う。
- ある視点で、「仮説」を立てる
- ある期間、定点観測をする
- 1の仮説を2から、かんがえてみる
ぼくが、ここ香港で、10年以上にわたって、いくどもいくども繰り返してきたプロセスである。
今回も、とりあえず、「仮説」を据え置いて、これから「定点観測」をしてゆくことになる。
それにしても、「環境」ということをかんがえると、人は環境につくられ、また環境は人につくられることをかんがえる。
「歴史」ということでも同様で、人びとは歴史をこうむるだけでなく、歴史は人びとによってつくられる。
「環境」や「歴史」のカッコ内はいろいろと変えることができ、たとえば、「組織」など、いろいろなバリエーションがある(動詞部分、「つくる」も変えることで、いろいろばバリエーションがある)。
いずれにしても、なにかに<働きかけられる>ものとしての人と、なにかに<働きかける>ものとしての人がいる。
そのような相互作用のなかに、「環境」が生まれ、また「歴史」が生まれる。
こんなことを書いても、言っても、「意味がない」と思われるかもしれない。
けれども、ぼくたちは、ときどきの状況によって、<働きかけられる>ことか、あるいは<働きかける>ことのいずれか(だけ)に焦点をあてて、<働きかけられ/働きかける>ものとしてのじぶんを、どこかに忘れてしまう。
だから、ときに、ぼくはこんなことを思い起こして、「じぶんのいる場所」をたしかめてみたりする。