香港に住んでいて、街やふつうの通りを歩いているときなどに、ぼくは、よく道を聞かれる。
昨日も、香港の人に、路上で道を尋ねられた。
でも、この「よく」という言葉を使うのがよいのかどうかはわからない。
「道を尋ねられる」ということにおいて、「よく」というのが、どのくらいの頻度で尋ねられるのかなんて、参考になるような統計や資料があるわけではない。
つまり、きわめて、「相対的」なものだ。
だから、「よく」というのは、ぼくの人生のなかにおいての「よく」という程度にとどめておきたい。
日本に住んでいたときよりも、あるいはニュージーランドやシエラレオネや東ティモールに住んでいたときよりも、はるかに「よく」、ここ香港で、ぼくは道を尋ねられる。
というより、香港に来るまでの人生で「道を尋ねられた数」の総計よりも、ここ香港に住んで11年程の期間に「道を尋ねられた数」の方が大きい。
そう考えてみると、「道を尋ねられる」要因として、まず第一に、「香港」という土地柄が挙げられる。
ぼくに「道を尋ねる人たち」は、大別すると、香港の人と観光で訪れている人(主に中国本土の人)である。
香港の人に道を尋ねられるという点から考えると、香港の人たちの「気さくさ」が挙げられるかもしれない。
たとえば「道を尋ねる」ということにおいて、香港の人たちは互いに気さくに話しかけるようなところがある。
また、観光で訪れる人に尋ねられるという点から考えると、香港は観光で訪れる人たちの数が多く、また香港の街が凝縮されていて「観光地」が密集していることが挙げられる。
だから、どこに行っても、観光で来ている人たちがいたりする。
このような「香港」という土地柄がある。
それから、「道を尋ねられる」要因として、次に「じぶん」ということをかんがえてみる。
ぼくはとりわけ、「道を知ってそうな人」の顔をしているわけではないし(そんな人がいるとしてどんな顔かは定かではないけれど)、「気さくさ」を醸し出しているということもないと思う。
けれども、ぼくが誰かに道を尋ねるとすれば、やはり、ここ/そこに住んでいそうな人で、またそれなりにフレンドリーに答えてくれそうな人を選ぶだろうと思うと、ぼくは、そのような点において「道を尋ねる人たち」の基準をクリアしているのだろうかと、かんがえてみることはできる。
ぼくは第一に、香港のどこにいっても、大体において「香港の人」だと思われる(英語で話しかけても、広東語できりかえされる)。
それから、第二に、ぼくはやはり、それなりに肯定的な雰囲気を心がけている。
ネガティブなときもあるし、気分がのらないこともたくさんあるけれど、根源的な次元において、ぼくは人生を肯定している。
それが道を尋ねられる理由かどうかはよくわからないけれども、ぼくの側からそうかんがえてみる。
こんなふうに、ぼくは「道を尋ねられる」ことのなかに、「じぶん」を見返してみる。
「道を尋ねられる」ことは、それでも、一つの出会いであるし、またぼくの「状態」を映し出す鏡のようなものでもある。
広東語のいくつもの波におされて、まったく答えられないこともあるけれど、ぼくは笑顔をかえす。
それにしても、いつも、「まさかこんなところで…」という場所とタイミングで、ぼくは、道を尋ねられるのである。