経験や体験というものは、ぼくたちの好奇心や問題意識に火をつける。
それらがじぶんの意識や知識、つまり言葉で語ることができないものである場合は、なおさらである。
ボブ・ディランの、どこか「捉えどころのない」歌声と演奏に、ここ香港でふれてから、その「捉えどころのなさ」に、ぼくはひっぱられる(ブログ「香港でふれる、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の「世界」。- 「捉えどころのない」なかで浮かび上がる歌声。」)。
もちろん、そこにはボブ・ディランの歌声があり、ボブ・ディランの世界があるのだけれど、なかなか「捉えどころがない」のである。
あくまでも、「ぼく」にとって、捉えどころがないということであるけれども。
1970年にアメリカでリリースされた二つのアルバムに、マニュエル・ヤンは着目している(「ボブ・ディランが歌うアメリカ」第十回『現代思想』青土社、2016年9月号)。
一つは、すでに世界的スターであったボブ・ディランの『自画像(セルフ・ポートレイト)』であり、もう一つは、デトロイトの無名のメキシコ系肉体労働者ロドリゲスによる『冷厳な事実(コールド・ファクト)』である。
音楽的水準の天秤にかけた場合、ロドリゲスの『冷厳な事実(コールド・ファクト)』のレベルの高さが厳然たる事実であると、マニュエル・ヤンは述べているが、確かに、ロドリゲスの音楽には心を揺さぶるものがある。
これら二つのアルバムを対比させながら、マニュエル・ヤンはつぎのように評している。
…デトロイトを拠点に活動した無名歌手ロドリゲスはまるで異次元を泳ぐ『自画像』の対位法のような『冷厳な事実』を同時期に録音している。『自画像』がドメスティックな生活に自己陶酔し社会とは縁を切った我田引水するアーティストのバスティーシュ作品だとしたら、『冷厳な事実』は都会の反乱と混乱にまみれた具体的な社会性に根を張りながら自己表出を自然体でやり遂げた名作である。
マニュエル・ヤン「見張りの塔で自画像を描くアーティストと反乱する都市から逃げられない労働者」「ボブ・ディランが歌うアメリカ」第十回『現代思想』青土社、2016年9月号
この「無名」のロドリゲスを、アメリカや地元デトロイトで「有名」にしたのは、アカデミー賞受賞のドキュメンタリー映画『シュガーマン』(2012年)によってであり、『冷厳な事実(コールド・ファクト)』から40年以上が経過してからであった(※知られるとおり、南アフリカなど熱狂的に迎えられた場所もある)。
ロドリゲスとボブ・ディランの対比という仕方は興味深く、そこからアメリカやその時代をきりとる視点を提示してもくれる。
けれども、『自画像』を超えてボブ・ディランを聴き、その総体を見たとき、やはり「捉えどころのない」ボブ・ディランの世界があるように、ぼくには感じられる。
その「捉えどころのなさ」は、ある一人の人生の、ときに捉えどころのない多面性に根ざしているのかもしれないし、あるいは「じぶん」という経験の、多様な社会や人びとをその境界に映し出す本質に根ざしているのかもしれないと、思ったりもする。
マニュエル・ヤンは、ロドリゲスの作品に、デトロイトから逃げられないという「逃走」のテーマをひろいあげながら、つぎのように書く。
「逃走」はロックンロールの永続的テーマであり、アメリカ社会史の原点でもある。…ディランとその後のカウンターカルチャーに強い影響を残したジャック・ケロアックの『路上』と彼の仲間のビート作家たちにしろ、同じ1950年代に文化的対抗軸としてあらわれたロックンロールも、ミドルクラスの労働規律に従い工場や企業で働く「朗らかなロボット」(C・ライト・ミルズ)になることを拒む「逃亡者」の文化だ。
マニュエル・ヤン「見張りの塔で自画像を描くアーティストと反乱する都市から逃げられない労働者」『現代思想』青土社、2016年9月号
このような「逃走」のテーマの系譜において、マニュエル・ヤンは、「新しいディラン」と言われたブルース・スプリングスティーンを論考で追ってゆく。
この時代の「逃走」とは、何だったのだろうかと問いを立ててみることができる。
20世紀の後半の社会を特徴づけたのは、社会学者の見田宗介が明晰に解き明かしているように、消費化社会/情報化社会であり、さらに<近代>という広い視点においては、貨幣と都市の原理の全面化である。
そして、これらを駆動してきたのは、世界を抽象化/数量化/合理化する精神であり、また現在の意味を未来の目的のうちに求める精神である。
社会のすみずみまでどこまでも「合理化」し、人びとの<今>を解体してゆく精神において社会の発展が駆動され、このような磁場から「逃走」する精神たちを生んできたように見える。
「逃走」のロックンロールを生みだした時代は、ある意味、人間の歴史における特異な時代であったと見ることもできる。
そして時代が「人間の歴史の第二の曲がり角」(見田宗介)にかかっているなかで、これまでにない「時代」に突入している。
そんな時代に、どのような「音楽」が生まれているのだろうか/生まれてくるだろうか。