世界の現場で実感した<恐怖からの自由>の大切さ。- ぼくが「自由」を書きつづける理由のひとつ。 / by Jun Nakajima

人間の個としての「自由」ということを、真木悠介(見田宗介)の明晰な論稿によりながら、別のブログに書いた。

「テレオノミーの開放系」というコンセプトであり、真木悠介(見田宗介)の言葉で、再度、ふれておきたい。

このコンセプトは、『自我の起原』(岩波書店、1993年)の最終章で提示されているが、真木悠介(見田宗介)は別のところで、その主旨をつぎのようにより簡潔に書いている。

 

…<テレオノミーの開放系>とは…、人間の<自我>の脱目的性ということである。…生命世界の中で唯一人間の<自我>だけが、最初はこの個体(「自分」)自身を自己=目的化することをとおして、生成子の再生産という鉄の目的性から解放され、しかしそうなると個体は無目的のものとなるから、自己自身の絶対化(エゴイズム)からさえも自由な、どのような生きる目的をももつことができる存在となる。…

見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』青土社、2016年9月号

 

ぼくたちは「個」として、その自我の起原から見ると、どのような生きる目的ももつことも/もたないこともできる存在である。

 

このことを書いていたら、「個」ではなく、社会における自由という次元において、<恐怖からの自由>ということ、その大切さを思った。

<恐怖からの自由>というコンセプトについては、大学院で途上国の開発問題を専門にしながら「自由論」の領域にどっぷりとつかっているときに出会う。

そのことを、ぼくの経験の軸において、深いところで理解したのは、大学院を終えて、NGO職員として、途上国、特に紛争地と言われる現場に出ていったときであった。

その現場で「自由ではない」ということがどういうものか、まるで手に取ることのできるような仕方で、ぼくは実感したのだ。

 

この現場での経験と<恐怖からの自由>については、昨年別のブログ(「大学で「自由論」に向き合い、世界で「自由」(「不自由」)を経験して。- 「恐怖からの自由」という視点から。」)で書いたので、一部を加筆修正して再掲する。

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ぼくは、内戦が終結したばかりの西アフリカのシエラレオネに、2002年、赴任した。

当時、国際連合シエレレオネ派遣団(UNAMISIL)が活動していて、その任務は平和維持や武装解除などであり、ぼくが赴任した当時も、各国の軍隊などが駐屯して任務にあたっていた。

UNAMISILの影響もあって街は「平和」が保たれていたけれど、安全対策は最重要事項のひとつであった。

数々の対策を打ちながら「安全」を確保しなければならない中で、「危険からの自由」ということの大切さを、手に取ることができるように、ぼくは実感していくことになる。

 

それから2003年、ぼくは東ティモールにうつることになる。

バリ島から飛行機で2時間ほどの東ティモールは、長年にわたる紛争を経て独立を果たしたばかりであった。

当時の東ティモールでも、国際連合東ティモール支援団(UNMISET)のもとに、国連の平和維持活動が展開されていた。

ぼくが現地入りしたときは、日本の自衛隊もPKO活動として東ティモールに派遣されていた。

独立による気分の高揚、さまざまな国際支援、平和維持活動の効果などもあって、とても「平和」な東ティモールであった。

しかし、それらの活動が終了・縮小された後の2006年、雲行きが怪しくなり始め、やがて首都ディリで騒乱が発生するに至る。

ディリ騒乱が発生した日、東ティモール政府は独自に事態を収拾できず、各国の軍隊に支援を要請する。

ぼくは首都ディリの市街戦の真っ只中に置かれ、家の外の通りでは銃撃戦が続いた。

家のテレビのBBC放送は、家の前の状況を報道している、という奇妙な状況に、ぼくはおかれる。

その夜、政府の支援要請に応じたオーストラリア軍などが東ティモールに上陸し、事態は若干の落ち着きをみせるが、夜の街は異様な雰囲気を漂わせていた。

事態が沈静化した翌日、ぼくは国外退避することになる。

オーストラリア軍が完全にコントロールするディリの国際空港に入ったときに安心したことを、ぼくは覚えている。

平和的状況を失って、「自由」の輪郭と姿が、じぶんの深いところにさらに刻印されていく。

ぼくは自由と不自由の間にある<落差・格差>のようなものを、見ているようであった。

 

机上で学んだ「自由論」のひとつの基本は、「~の自由」、特に「他者からの自由」ということである。

誰もが想像するところである。

シエラレオネと東ティモールの経験は、「恐怖からの自由」ということを基底におく自由主義(シュクラーの提唱)をぼくに思い出させた。

政治学者である大川正彦の著作『正義論』(岩波書店)の中で、シュクラーの「恐怖の自由主義(the liberalism of fear)」(大川は「恐怖からの自由」を軸にそえる自由主義と注記している)が紹介されている。

その詳細はいったん横に置いておくが、ぼくが惹かれたのは、まずは「恐怖からの自由」を基軸としておくことの大切さである。

「恐怖からの自由」は、「残酷な行為」からの自由である。

ぼくは「残酷な行為」を無数に経験してきた社会と人たちの中に生きながら、そして社会の秩序が崩壊する現場(東ティモールのディリ騒乱)を自身で経験しながら、机上で学んでいた「恐怖からの自由」という言葉の痛切さを感じることになったのだ。

残酷な行為から自由であることが、どれほど大切であるかということ。

「自由論」は、ともすると抽象的になりすぎる。

また、日常で自由を語る人たちは、自分勝手さと表裏をなすような自由を標榜したりする。

そのような議論と表面的にすぎる考え方を一気にとらえかえすように、「恐怖からの自由」ということの大切さを、ぼくは感じてきた。

 

ぼくの経験と実感は、今も世界各地で「恐怖からの自由」を手にできない人たちへと、ぼくの眼と心を向けさせる。

「恐怖からの自由」という、その自由を失わないと見えにくいような自由な社会に暮らしながら、あらためて、「恐怖からの自由」を生きることができることに感謝し、ぼくにできることを考える。

「恐怖からの自由」は、「他者(による残酷な行為)からの自由」であるけれど、それは<他者たちとともにつくられる自由/他者たちによってつくられる自由>でもある。

自由とは、他者の干渉や介入などから自由になるということだけでなく、他者たちとともにつくる/他者たちによってつくられる<自由>という大事な側面をもつ。

日々空気のように享受している「恐怖からの自由」という見えないもの/見えにくいものを視る<視力>を持ちながら、ぼくたちは<自由>をともにつくっていくことができる。

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シエラレオネと東ティモールは、今は「平和」であることを追記しておきたい(※現地に行く人たちが少ない場所であるから、その場所の語り方には注意を要すると考える)。

 

時間と空間は、平和と戦争・紛争との間に「ギャップ」をつくってゆくことも明記しておきたい。

当時、日本からシエラレオネへの経由地であったイギリスのロンドンは、シエラレオネからやってくると、まったく違う世界がひろがっていて、そのギャップにぼくは感覚を合わせるのに苦労した。

東ティモール騒乱のときも、経由地のバリ島は観光客たちで賑わう平和な場所であり、ぼくは二つの場所のギャップに、やはり、ひどくとまどったものだ。

空間だけに限らず、時間も然りである。

このような経験をしたものの責務のようなものとして、ぼくは、経験とそこで感じたことや学んだことを、少しでも書いておこうと思う。