小さい頃から「世界がひとつになる」というイメージに惹かれてきた。
「国」という国境線で分けられた世界ではなく、この「地球」という世界のひろがりとつながりにである。
小さい頃に「戦争」の話をよく耳にしていたからかもしれない。
イメージに牽引される仕方で、いつからか、「国連」(United Nations)に興味をもつようになった。
その流れのようなところで、大学で「国際関係論」という学問の分野を学びたくなり、休学して住んだニュージーランドから帰国したぼくは「国際関係論」ゼミ(Peter B. Oblas教授)に所属した。
その年は、今思い返すと、今月(2018年8月)に亡くなられたコフィ・アナン氏が国連の事務総長(Secretary General)に就任した1997年のことであった。
ゼミはOblas教授のもとで数名が集い、英語で行われ、(英語)論文の書き方、そして国際関係について学んだ。
卒業論文としてぼくが選んだトピックは「国連」についてであった。
発展途上国の開発・発展にも興味をもちはじめていたぼくは、それと国連を組み合わせて、国際協力における国連のコーディネーション機能とその限界などについて書いた。
それまでとは異なり、英語文献で国連を学べば学ぶほどに、国連に対して抱かれやすい理想像よりも、その現実性と困難を知ることになった。
事務総長というポジションについても「世界で最も困難な仕事」と形容される事情も、ぼくは徐々に理解していった。
それから数年が経過し、大学院で途上国開発・発展を専門に学んだぼくは、国際NGOの職員として、2002年、西アフリカのシエラレオネに降り立っていた。
携わるプロジェクトは、国連難民高等弁務官事務所が主導する事業の一環であった。
紛争が終結したばかりのシエラレオネの人たちが故郷などに戻り生活を建て直す支援、また隣国リベリアの紛争を逃れてくる難民の人たちの支援である。
治安も安定せず、国連の平和維持軍も展開していたときであった。
国連は引き続き、コフィー・アナン事務総長のもとで運営されていた。
翌年2003年、東ティモールに移ったぼくは、そこでも、国連の強い影響下に独立後の国づくりがすすむ環境で、仕事をすることになった。
ぼくが東ティモールに滞在中の2006年12月をもって、コフィー・アナンは事務総長職を終えた。
やがて、ぼくも、紛争地や途上国での仕事に区切りをつけて、2007年初頭に東ティモールを離れることになった。
今思い返すと、ぼくが大学で国連について学び、そして実際のフィールドで国連と共に仕事をしていた時期は、コフィー・アナンが事務総長として国連を率いていたときであった。
コフィー・アナン氏が亡くなり、いろいろと思い返しているうちに、ぼくはそんなことに気づいた。
コフィー・アナン事務総長のもとでの国連は「ひとつの時代」をつくったけれども、その時代は、ぼくにとっても大切な時であった。