西アフリカのシエラレオネと東ティモールで国際協力・国際支援に携わっていたころ、現場からの帰り道や移動中に、ときおりぼくのなかで「葛藤」のようなものが起きた。
支援が「何人」に届くか、また何人に対して効果があるかということについて、その数字の大小の葛藤だ。
「できるだけ多くの人たち」に支援を届け、生活がよくなってほしいと思う一方で、「数は少なくても」ほんとうに効果のある支援を展開したいと思う。
そのどちらもがぼくの心の中にはあって、何かのおりにふと、もやもやしたものが湧き上がってくるのであった。
もちろん、支援を展開する状況によっても、支援の形態は異なる。
生死にかかわるような緊急支援を展開する場合と、緊急の状態ではなく、いわゆる現場の「日常」にかかわってゆくような支援とでは、方法はさまざまに異なってくる。
紛争や自然災害時の緊急支援は「できるだけ多くの人たち」という状況に直面しやすいし、生活改善的な支援はその地域の特定のコミュニティに「根」をはってゆくような支援をデザインしてゆくを目指したりする。
前者は例えば物資支給ということが支援の多くを占めることになりやすく、後者はソフト面の支援が大切な要素として入ってくる。
支援の形態だけでなく、支援の「成果の評価」の側面もある。
支援のコストに対してどれだけの効果があったのかを「費用対効果」として考慮し、成果を評価する。
「限られたリソース」を有効に使ってゆくためにはこの視点とスタンスはとても大切でありながら、他方で「効果」の判定は見方によっては複雑でもある。
このような事情がありながら、それでも、ぼくの内面では、「できるだけ多くの人たちへの支援」と「数は少なくても根のはる支援」というふたつの側面が葛藤のようなものを起こすのであった。
当時も今も、現地に生きる人たちにとって支援がすべてなどとは思わないけれど、他方で支援ということの大きな力にも注意深くあろうと思った。
そのようないろいろな「声」が、ぼくの内面でそれそれ互いに意見を交わしつづけていた。
今になっては、「できるだけ多くの人たちへの支援」と「数は少なくても根のはる支援」というふたつの側面については、それらどちらもが、その気持ちの<源泉>をぼく自身の内奥にもつものであることを思う。
どちらがいいということでもなく、人それぞれに、その人の「目的」として、あるいは「方法」としてもつことのできるものである。
また、同じ人にとってもいつも同じということではなく、人生のタイミングや局面によっても、じぶんにあう目的や方法は異なる。
さらには、この見方自体、つまりこの視点が依って立つ前提自体を変えることもできる。
このような内面的な「対話」をつづけながら、その対話をとめるのではなく、継続してゆくことのバランスのなかで、ぼくはつねに、じぶんのやっていることをより客観的に見つめようとしてきたのだと思う。