「半分」までで読めなくなってしまっていた本を読みすすめて。- 加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』。 / by Jun Nakajima

「本の読み方」は自由であってよいと思う。

昔からそう思っていたわけではない。

「本は最初から読み始め、最後まできっちりと読まなければいけない」という考えが、いつ、どのように、誰の影響のもとで獲得してきたものか、ぼくにはまったく見当がつかない。

そもそもが、学校の夏の課題図書を除いて、本を読むことをしなかったから、「本の読み方」の教えの起源などわからない。

20歳頃から本を読み始め、そこから一気に本の世界に魅了され、それが過剰になった30代の半ば頃だっただろうか、ぼくは「本の読み方」の自由を手に入れた。

本をぜんぶ読む必要はないし、どこから読んでもどこで読み終わってもよい、そんな自由だ。

何年も前に手にした本を今になってひらくこともある。

 

そのようなぼくの蔵書の中に、「半分」まで読んで、そこから進まなくなってしまった本もある。

ぼくのワイフワークのひとつともいえるトピックに正面から向かってくれている、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)。

社会学者である見田宗介の名著『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)で提起されていることを軸としながら、「震災後」の日本で、<有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>を追求している。

けっして、さっと読める本ではないけれども、今を生き、<未来>を構想し、よりよい世界をひらいてゆく精神たちにとって、どこまでも、とことんつきあってくれる思考の連続である。

そんな本の前半を読んだあと、なぜか後半の半分が読めずにいたのだ。

幾度も幾度も読もうとして、数頁や数節を読むのだが、そこで止まってしまう。

つぎに読もうとするとき、思考のロジックを丁寧に追うために、前読んだところから再度読み始めるのだけれども、やはり止まってしまう。

そんなことを繰り返したのち、数日前、ぼくはその「閉ざされた門」をくぐりぬけることができた。

本はいつでも開かれているから「閉ざされた門」というより、ぼく自身が「閉ざしていた門」である。

 

なぜくぐりぬけることができたのか、ぼくはわからない。

ただ言えることは、後半部分は、この数年来、ちょうどぼくが(意識的にまた無意識的に)かんがえつづけていたトピックを正面から論じていることである。

論がすすむにつれて、やがてそれは、ぼくがこの20年ほどかんがえつづけてきた概念である「自由」ということへとつながってゆくという偶然性つきであった。

提示されている<コンティンジェントな自由>というコンセプトは、ぼくが言葉にすることのできなかったことを、言葉にしてくれている。

 

作家の高橋源一郎による書評は、この本の帯に、つぎのように綴られている。

 

「することができる」から、
「することも、しないこともできる」へ。
       *
最後に著者がたどり着いた結論は、みなさんが自分で確かめてほしい。それは、脆く、弱く、繊細だが、それこそが、「有限性」の時代の「信憑」の徴なのである。

高橋源一郎氏評(「波」)

 

「最後に著者がたどり着いた結論は、みなさんが自分で確かめてほしい」という望みの意味合いと意図を、ぼくはようやく「たどり着いた」ところで、しずかな感動を感じながら理解する。