「夢を見ない」村上春樹と谷川俊太郎。- 現実生活と創作のパラレルな存在。 / by Jun Nakajima

「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、小説家の村上春樹は、心理学者・心理療法家の河合隼雄に向けて語っている(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)。

河合隼雄は、つぎのように、村上春樹にことばを返している。

 

河合 それは小説を書いておられるからですよ。谷川俊太郎さんも言っておられました、ほとんど見ないって。そりゃあたりまえだ、あなた詩を書いているもんって、ぼくは言ったんです。…とくに『ねじまき鳥クロニクル』のような物語を書かれているときは、もう現実生活と物語を書くことが完全にパラレルにあるのでしょうからね。だから、見る必要がないのだと思います。書いておられるうえにもう無理に夢なんか見たりしていたら大変ですよ。

河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫

 

「夢を見ない」村上春樹と谷川俊太郎。

ぼくは、なぜか、この箇所に、とてもひかれる。

詩や(『ねじまき鳥クロニクル』のような)小説などの創作と作品の本質ということ。

村上春樹や谷川俊太郎の作品が<意識と無意識の境目を往還すること>でつくられること(なお、村上春樹のインタビュー集のひとつは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』と題されている)。

そのようなことが、「夢」という文脈において、ぼくの強い関心をひらかせるようだ。

 

ちなみに、ここでふれられている、詩人の谷川俊太郎との「対話」が、どこのものかは定かではないけれど、「ユング心理学」をめぐる河合隼雄と谷川俊太郎の間の「対話」のなかで、「ぼくなんかも夢は見るんだけれども、ほとんど覚えてないんです。…」と、谷川俊太郎は河合隼雄に語っている(『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫)。

「夢をぜんぜん見ない」ということは「夢をほとんど覚えていない」ということと同質のこととして、ここでは捉えてもよいのだろう(※ 河合隼雄は「みんな夢は見ているんですよ。」と、上記の「対話」で谷川俊太郎に解説している)。

 

ところで、「夢をぜんぜん見ない」村上春樹も、(『ねじまき鳥クロニクル』が書かれたいた頃)ただひとつだけ見る夢があると、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の「対話」で語っている。

その夢は、<空中浮遊の夢>である。

高いところに飛翔する空中浮遊ではなく、地面からちょっとだけ浮く<空中浮遊の夢>である。

この<空中浮遊>ということは「物語づくり」であると、河合隼雄は解釈をしている。

その対話を読みながら、ぼくもある時期、空中浮遊の夢、それも村上春樹と同じように、「地面からちょっとだけ浮く空中浮遊」の夢を見る時期があったことを、思い起こす。

ぼくもあまり「夢を見ない(覚えていない)」ほうなのだけれど。