D・H・ロレンスの「本の読み方」。- 読むことによる経験を、深く、深く。 / by Jun Nakajima

『チャタレイ夫人の恋人』などで知られる、小説家・詩人のD・H・ロレンス(1885-1930)。

ロレンスの最後の作品、死の直前、1929年の冬に書かれ、1931年に発刊された『アポカリプス』という評論がある。

全集(『The Complete Works of D.H. Lawrence』Delphi Classics 2012)の編者による付記には、文明へのラディカルな批判、また「新しい天国と新しい地球」を創る人類の力へのロレンスの揺るぎない信念の宣言の書であると紹介されている。

社会学者の見田宗介が「9・11」とそれに続く出来事に応答する仕方で、当時発表していた文章のなかに、この『アポカリプス』が出てくる。

この一連の出来事のなかで、想起されたのが、ロレンスによる、この『アポカリプス』という作品であったという。

そのことについては、別のブログ(「「関係の絶対性」という、現代世界の課題。- 見田宗介による「9・11」への応答。」)で書いた。

(なお、ロレンスの生まれた日が1885年の「9・11」であったということはただの偶然でありながら、目にとまる。)

このことをきっかけに、これまで全編をとおしてきっちりと向き合っていなかった『アポカリプス』を読もうと、ロレンスの全集(英語)をひらき、ロレンスの世界に足を踏み入れることにした。

第一章のはじめのほうに、「ロレンスの本の読み方」が書かれているところがある。

本は「理解される」(意味が固定され確立される)とともに、その生命を失うのだと、<本の生命>ということについてロレンスは言及している。

ロレンスにとっての驚きは、たとえば、『戦争と平和』をふたたび読んだとき、それがあまりにもじぶんの心を揺り動かさなかったのかということであったという。

逆に、読むたびに異なる何かが見つかるような本、あるいは異なる仕方で心を揺り動かすときに、本は<生きている>のだと、ロレンスは書く。

また、この時代(20世紀初頭)においてもすでに「浅い本」がつぎからつぎへと出ていたようだが、そのような「1回読んで終わる」本に対峙するように、ロレンスは、本という経験の「ほんとうの歓び(joy)」について、つぎのように書いている。

…一冊の本のほんとうの歓びというものは、それを幾度も幾度も読み返すこと、そしていつもそこに異なるものを見つけ、別の意味、別のレベルの意味に出くわすことにあるのだ。それは、いつもどおり、価値の問いである。われわれは書物の量に圧倒されていて、ある本が貴重でありうること、宝石や、深く深く見てゆくといつもより深淵な経験を得ることのできる素敵な絵画のように貴重でありうることに、ほとんどもう気づかないのだ。6冊そこらの本を読むよりも、あいだをあけて、一冊の本を6回読むほうが、はるかに、はるかによい。ある特定の本がそれを6回も読むようにあなたを呼びとめるのであるのなら、それはそのたびにより深くより深くすすむ経験となり、また魂の、感情的な、精神的なぜんたいを豊饒にするだろう。

『The Complete Works of D.H. Lawrence』Delphi Classics 2012  ※日本語訳はブログ著者

ロレンスが教えてくれる「本の読み方」である。

1929年という時代に書かれた文章であり、現代社会とは異なる社会的状況にあるけれども、この言葉は今だからこそいっそう、書物の状況の一面を言い当てているように思う。

もちろん、「1回読んで終わる」本も、新しい知識や視点を与えてくれるものであったりするし、ときに大きな「気づき」への糸口となることもあるだろうだから、それ自体否定されるものとは思わない。

しかし、やはり、ぼくたちの生きることの深い経験に問いをなげかけ、「世界の見え方」を変え、そうすることで、ぼくたちの精神の土壌を豊饒にするような書物は、ロレンスの書くように、幾度も幾度も「ぼくたちに呼びかけてくる(call you to read it)」ような本であるように、ぼくは思う。

そのような本に一冊でも出会うことができるのであれば、それは幸福なことである。

見田宗介=真木悠介の書く本は、ぼくにとって、そのような<本>である。

そのなかの一冊、真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房、1977年 → 復刻版:朝日新聞社、2014年)を、ぼくはひらく。

もう20年以上、この人生を共にしている。

読むたびに、新しい意味や気づきがひらかれ、視界がひろがり、理解が深まる。

そのように深く、深くすすむ経験のなかで、晩年の(当時ほぼ今のぼくと同年齢の)ロレンスの言葉が、ぼくのなかに響いてくる。