メディアやSNSなどで、他者の言動にたいする「批判」がなされる。社会的/公共的な問題や課題においては建設的な批判とそれが展開される場が大切であるけれども、「批判」が個人的/プライベートの領域におよんでゆくことは別のことである。
「批判」の背後には、「正しい」と信じたり思ったりすることがあって、そこを本拠地として、批判の矢がはなたれる。しあわせや生きかたについても、このようである・あのようであるという「標準」が前提されていて、その標準からはずれてゆくものにたいして、批判の矢がはなたれるのである(批判の矢は身近な人たちにも向けてもはなたれる)。
このような<標準指向>が時代にあわなくなってきている一方で、根強く残っている。この二つの価値観(標準指向と非標準指向)がいろいろな場面で交錯し、コミュニケーションがかみあわないようにも見える。
個人的/プライベートの領域におよび「批判」(標準を基準にした批判)は、時代を経るごとに減ってゆくとぼくは思うけれど、依然として根強く残っている。
これからの「明るい世界」の公準のひとつとして、社会学者の見田宗介は「diverse(多様性)」を挙げているが、その言葉に、具体的なイメージをつぎのように与えている。
宮沢賢治の詩稿の断片に、このような一説がある。
ああたれか来てわたくしに言へ/「億の巨匠が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る」と
われわれはここで巨匠の項のコンセプトに、幸福をおきかえてみることができる。
億の幸福が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る。と
明るい世界の核心は、億の幸福の相犯さない共存ということにある。見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「億の幸福の相犯さない共存」ということが語られているが、今はまだ、「億の幸福」が他者を批判し、干渉し、自身の幸福のかたちの「優位」を声高に叫んだりしている。
「億の幸福の相犯さない共存」ということはただの空想的なイメージではなく、見田宗介は「交響圏とルール圏」という論稿(『社会学入門』所収)のなかで、そのようなイメージで語られる「自由な社会」の骨格構成を試みている。「億の幸福の相犯さない共存」この一言のなかには、この論稿(またこの論稿を構成している理論と論考)のぜんたいが、こめられている。
その論稿にここではふかくは入っていかないが、「億の幸福の相犯さない共存」にかんれんして、哲学者ニーチェの生涯を読み解くバタイユにふれながら、見田宗介が書いているところを引いておきたい。
ニーチェの試みは、魂のことを手放すものと、魂のことを支配しようとするものという、二つの巨大な時代の崖面によって切り出された稜線を、踏み渡る歩行のようなものだった。<「魂の」自由>を擁護することと、<魂の「自由」>を擁護すること。魂ということばを消していうなら、われわれの生の内での<至高なもの>をとりもどすことと、他者に強いられる<至高なもの>の一切の形式を拒否すること。
見田宗介『社会学入門』岩波新書、2006年 ※一部表記方法を変更
ところで、「億の幸福が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る」のなかにおかれる「幸福」は、より広い意味のなかで捉えられるものであって、その広い意味のなかに包括される言葉(あるいはそれを包括する言葉)として、ぼくは「生きかた」におきかえておきたい。
億の生きかたが並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る。と
「億の生きかたの相犯さない共存」の世界は、表面的な「明るさ」ではなく、生きるということの核心にこめられた<明るさ>によって照らされる。
このような世界はけっして夢物語などではなく、「人間と社会の未来」は、その<明るさ>の方向にながれこんでいっているのだと、ぼくは思う。