探検家の角幡唯介(かくはたゆうすけ)のノンフィクション作品、『極夜行』(文藝春秋、2018年)。
太陽が地平線の下にしずみ、太陽が3ヵ月から半年ものあいだ姿をみせない漆黒の夜、「極夜」(きょくや)。その「極夜」を未知の空間ととらえ、先住民が住む集落として世界最北に位置する、グリーンランドのシオラパルクを出発点に、極夜という闇を経験し、「本物の太陽や本物の月」を見る旅。
「私たちは普段、太陽を見ているようで、じつは見ていない」のであり、太陽が人間にとって本質的な存在でなくなったと角幡が書く、この近現代という時代にあって、真の闇をもとめ、そして本物の太陽をもとめる。
こうして、「極夜明けの最初の太陽を見ること」が、あえての、旅の目的として設定される。
極夜。太陽があらわれない、長い、長い、漆黒の夜。そんな「夜」は、想像するだけでも、こわくなる。『極夜行』の旅の準備とはじまりを読みながら、そんな極夜を想像しているだけで、もしそんな状況におかれたら、精神がおかしくなってしまうのではないかと思ってしまう。
以前、それほど遠くない以前に、ぼくは、「もし太陽がなくなったら…」という想像にとりつかれたことがあった。そんな映画や小説があっただろうかと思いながら、とくに思い出せない。地球は永遠ではないし、太陽にも寿命がある。インターネットで検索して、太陽には寿命があるが、はるかはるか先であることを知って少し安心する。
極夜の想像もそうだけれど、「もし太陽がなくなったら…」という想像をするだけで、毎日、あたりまえのようにのぼる太陽が、とてもありがたいものとして感じられる。
そんなことを思っていたこともあり、ぼくはこの『極夜行』を手にとったのだった。
ところで、角幡唯介は早稲田大学探検部のOBである。今はどうかは知らないけれど、ぼくが1990年代半ばにアジアを旅していたとき、早稲田大学探検部の人たちに出会って情報交換などをしたことがあるが、彼らの「探検」にかける意欲と行動には、おどろかされるばかりであった。
そのときの「おどろき」とイメージがぼくの記憶のなかにきっちりとしまわれていたから、角幡唯介が早稲田大学探検部OBと知ったとき、彼が敢行する「探検」の広さと深さへの想像と期待もかきたてられたのである。
そんな想像と期待にもかかわらず、『極夜行』の冒頭の、つぎのような文章に、ぼくは共感をおぼえる。
学生時代から私はしばしば探検や冒険に出かけてきたが、そのため人からは、何で冒険なんてするんですか、とよく訊かれた。はっきり言って冒険とは生きることと同じなので、その質問はあなたは何で生きているんですかと訊かれるのに等しく、ほとんど回答不能なのだが、そんなことを言って野暮な人間だと思われるのも嫌なので、冒険の意義は自然のなかで死の可能性に触れて、死をとりこむことで生の実感を得ることにあります、などともっともらしいことを言ったり書いたりしてきた。…
角幡唯介『極夜行』(文藝春秋、2018年)
このあとにつづく、彼の妻の出産を契機とした「妊娠出産」考と冒険活動の対比も興味深いのだけれど、それはともかく、「冒険とは生きることと同じ」という感覚と思考のなかで、角幡唯介の探検・冒険は彼にとって存在している。
探検・冒険が「ふつうではない」(標準ではない)世界に住む人たちにとって、そこに「なぜ」という質問が生じてくる。これから徐々にひらいてゆく、<億の生きかた>が相犯さない世界においては、探検・冒険であれ、その他の活動であれ、「なぜ」という質問ではなく、別の質問が交わされることになると、ぼくは思う。
ぼくの質問は、「なぜ」ではなく、「長い、長い漆黒の夜の経験」に直接的に向けられた質問であり、極夜の旅において「本物の太陽や本物の月」をどのように見たのかという問いである。
角幡唯介は探検という活動を「人間社会のシステムの外側に出る活動」とみなしているが、現在の近現代社会を「外側」から照射する経験に、ぼくの問いは向けられる。
この本をひらいて、まだぼくはその旅の途上にいる。角幡唯介の極夜行における直接的な経験に照準をあわせながら、ぼくはこの本を読んでいる。
本を読む旅の途上だけれども、あるいは旅の途上だからこそ、書きたくなることがある。だから、こうして、ぼくは書くのである。