「動物に脳がつくられた理由」について。- 養老孟司先生に「耳」を傾ける。 / by Jun Nakajima

「脳がつくられた理由」。なんだろう。そう聞くと、さらにその先を聴きたくなる。

養老孟司は、つぎのように、持論を語っている。


…動物に脳がつくられた理由というのは、遺伝子レベルでは間に合わないことをするためなんじゃないかと思います。…つまり、環境に適応するために。昆虫を見ているとよくわかりますよ、あいつら、ものすごく頭が固い……。

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)


時間があればいつも虫取りをしていて、虫を知り尽くしている養老孟司は、虫の行動が「段階的」であることを説明している。虫たちは、前の「行動が完了した」という情報が入力されると、次の行動が誘発されるというようになっていて、行動の途中で想定外のことがあっても行動を変えることはない(変えることができない)。むろん、一切反省もしない。


 生物というのは、最初はそうやって、段階的な行動をするようにできているんですね。おそらく遺伝子的なもので決められていた、いわゆる「本能」というやつはそういう行動しかできなかった。
 それを人間は脳を大きくしたことで、人間だけでなく哺乳類なんかそうですけど、「学習」ということをする。学習というのは、その時の状況に合わせて行動を変化させる。
 それをどんどん進化させていったのが人間です。脳がものすごくフレキシブルな行動ができるようになったことで、逆に何でもありみたいになってきた。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)


「何でもあり」の世界が脳によってつくられることで、社会は「脳のルール」で規定され、いわゆる<脳化社会>になる。都市のように、自然(身体)を排除しながら、頭だけで構築される。そのような「都市」が隆盛しているのが、この近代・現代社会という、ぼくたちが住んでいるところである(実際に「都市」に住んでいなくても、そのような社会構造のなかにいることに変わりはない)。

最初に戻ると、そのような「脳がつくられた理由」が、環境適応のために、遺伝子に任せておくことができないから、ということである。遺伝子に任せておけないから、別につくられたもの、それが「脳」である。こう、養老孟司は考えている。

「面白いですね」と、この話を聴いている作曲家の久石譲が言葉を発出しているが、やはり面白い。


この対談を読んでいたとき、ぼくは、ちょうど、似たようなことを考えていた時期であった。

人間におこる恐怖や心配などの感情シグナルは、じぶんを守るためでもあるけれど、それはほんとうに「危険」にかこまれていた、はるか昔のものであって、今を生きている人たちの多くにとっては「過剰シグナル」である、と。でも、過剰シグナルをそのままに受け取って、恐怖や心配であることにつきうごかされて、人は行動してしまったりする。

身心の適応スピードと環境変化のスピードとのあいだの乖離がますます大きくなってきていることを、ぼくは考えていたところであった。

この文脈で語るのがよいかはわからないけれど、この「乖離」をうめるものとして「脳」がある。養老孟司の語りを読みながら、ぼくは、いったん、そのように置いてみることにしたのだ。いろいろと細かいところはもっと考えないといけないと思いつつ。

それにしても、ますます大きくなる身心の適応スピードと環境変化のスピードとのあいだの乖離を、どのように生きていくのか、ということが、この先にある問いである。