整体の創始者といわれ、体を知り尽くしていた野口晴哉(1911-1976)が感じていた「世界」。
感ずる者の心には、感じない者の見る死んだ石でも、お月さまとして映る。
太陽も花も自分も、一つの息に生きている。
道端の石も匂い、鳥も唱っている。
感ずることによって在る世界は、いつも活き活き生きている。
見えないものも見える。動けないものも動いている。
そしてみんな元気だ。空には音楽が満ちている。野口晴哉『大絋小絋』(全生社、1996年)
エッセイ集『大絋小絋』のなかに、無題で、収められている。エッセイというより、詩である。
ここにはとくに解説もいらない。
空には音楽が満ちている。
こんな<感ずる者の心>へと、じぶんの感覚を研ぎ澄ましてゆきたい。
テクノロジーは、人間の「感覚器官の拡張」だ。かつて、マクルーハンが書いたことであり、今でも、メディアなどでその表現を見ることがある。
スマートフォンも、インターネットも、望遠鏡も、飛行機も。さまざまなテクノロジーは、人間の感覚器官を、古代の人たちが思ってもみなかった仕方で拡張してきた。
ほとんどの人たちがテクノロジーの恩恵を受けて生きている。
けれども、はたして、テクノロジーによって、「空には音楽が満ちている」と感ずることができるようになるだろうか。
と、考えてみる。
テクノロジーは、空に音楽が満ちている「ような」映像を編集して見せてくれるかもしれない。
編集された映像は、「空には音楽が満ちている」というイメージを、たとえば空を見る見方として、教えてくれるかもしれない。
けれども、野口晴哉が書くような「太陽も花も自分も、一つの息に生きている」という深い感覚と一体感を、それは約束してくれない。
それは、テクノロジーによって「外部へと拡張」していく仕方ではなく、いわば、じぶんの「内部への拡張」という仕方で、感官を研ぎ澄ましてゆくことによってであると思う。
じぶんの「内部への拡張」とは、内部へと閉じこもることではない。
そうではなく、それは外部に向かってひらかれるための方法。空に満ちている音楽を聴くための方法である。