香港に住みながら、長いあいだ、存在を知りながら食べてこなかったもののひとつに、「西多士」がある。香港式の「フレンチトースト」である。
食べてこなかった理由としては、見た目とても油っこく、また甘すぎるようであったからだろうか。同じ理由で、つまり油っこくて、甘いものを好んで食べることもできるのだろうけれど、長いあいだ、ぼくの身体は、そのようなものを積極的に欲してこなかったようだ。
ちなみに、香港式のフレンチトーストは油で揚げられたものだ。そんな油で揚げられたフレンチトーストに、バターやシロップや練乳などをかけて食べることになる。このトッピングは、店によって異なってくる。
そんな「様子」だから、ぼくは香港のフレンチトーストから、適度な距離をおいていたのだ(短期旅行で来たら、ふつうに試していたかもしれないけれど)。
でも、あるとき、意を決して(というほどでもないけれど)、注文してみた。香港の「ティータイム」のセットメニューとしてフレンチトーストがあり、セットには飲み物が含まれるから、これまた香港式のミルクティーを注文する。
テーブルに運ばれてくるや、いかにも油っこく、さっそく口にしてみて、やはり油っこく、甘い。それでも、「なかなかいけるかも」と思ったりもしながら食べる。毎日は食べることができないだろうけれど。
この日の「体験」が、つぎにつながってくる。
今度は、麺の老舗に麺を食べに行ったときに、その「つぎ」がやってきた。麺だけでもよかったのだけれど、メニューに掲載される「西多士」の大きな写真が目に入ってきて、「試してみよう」と、注文する。
すると、「◯◯分ほど時間がかかるよ」とお店のおじさんは去り際に告げてゆくのであった(たしか、15分か20分かと言われたのだと思う)。「速さ」をデフォルト設定とする香港においては、それなりの理由があって「時間がかかるよ」の言葉につながっている。
ほどなくして、シロップが先にやってきて、麺が運ばれてくる。店内は人でいっぱいだ。それから麺を食べ終わるころ、時間がかけられた「西多士」がやってくる。バターがのっていて、見るからに油っこい。
でも、切り分けられた「西多士」の一片を口にして、「おやっ」と思う。見た目ほどに油っこくないのだ。そしてそれ以上に感じたのは、おいしさであった。これはおいしい。
この発見の日から日をあけて、もう一度、この「西多士」を食べたが、やはりおいしいのであった。
「西多士」をつくりつづけるおじさんは、何年、この西多士をつくりつづけているのだろうかと、ぼくの想像がふくらんでゆくほどに、そこには「なにか」が感じられるのであった。
それにしても、香港の「西多士」には、いろいろと教えられた。
●「見た目」にとらわれないこと
● じぶんの「偏見」を脱してみること
● 多様性にひらかれること
などなど。
「見た目」(油っこい)にとらわれて、ぼくは距離をおいてしまっていた。現代の文明は「視覚」に支配される文明だ。「じぶん」という主体を危険にさらすことなく、目で客観的に判断するという具合に、五感のなかでもっとも「安全」を確保しやすい感覚である。
「見た目」は大切だけれども、ときに、うちやぶることが必要だ。
じぶんで「試してみること」で、じぶんで勝手につくってきた「偏見」を、ときに脱することができる。一度でダメでも、二度目(またそれ以降)に、脱する/うちやぶる瞬間がやってくるかもしれない。
そこには、「多様性」(「西多士」といってもほんとうに多様だ!)に充ちた世界がひろがっているのを見つけ、より「世界」がひろがってゆく。
ただの「西多士」とあなどるなかれ。
そして、ボーナスポイントとしてぼくが得たのは、じつは、ぼくは小さいころ「フレンチトースト」がとても好きだったことを思い出したこと。
香港の「西多士」とは異なるけれども、あるとき、ぼくはそれこそ毎朝、フレンチトーストを食べていたときがあった。ときには、じぶんでつくったりもしていた(でも、あるとき、フレンチトーストを食べることがぱったりととまってしまった。いつ、どのように、なぜなのか、ぼくにはわからない)。
<じぶんがとても好きだったものを思い出す>というのは、祝福に充ちた体験だ。