家の「片づけ」をすすめながら、ときに「片づけ」の本に目をとおす。
たとえば、佐々木典士『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』(ワニブックス、2015年)。「ミニマリスト」という生きかたで、人生が変わってきた経緯やヒントが綴られている。英訳も出版されていて、ここ香港の書店でもみかける本だ。
この本のなかで、究極のミニマリストであった人物たち、マザー・テレサやマハトマ・ガンディーなどに言及されている。このような人物たちにふれることは、究極のミニマリストになろう、と声高に叫ぶためではなく、究極のミニマリストたちはすでに存在していたのだから「モノが少ない対決」には意味がないことを語るためである。
マザー・テレサが遺したモノは、着古したサリー、カーディガン、手提げ袋、それからサンダルであり、またガンディーの部屋には何もなかったという。古代ギリシャの哲学者ディオゲネスは、最終的に布一枚だけを所有していただけであったという。
「モノが少ない対決」には意味がないことはたしかだ。
モノの「量」にフォーカスしすぎることは、片づけのほんらいの目的のひとつであろう、本人のしあわせという観点からは意味がないのだけれど、それでも、気になるところである。
他の本に目をとおしながら、ぼくはつぎのようなことばに出逢う。
「トランクひとつ分の幸せ」。
かたづけ士である小林易の『たった1分で人性が変わる片づけの習慣』に出てくることばである。
あなたの人生を豊かにするモノの量は、私がアイルランドに留学したときのトランクひとつ分の荷物かもしれません。トランクひとつ分の幸せこそが、いちばんステキな幸せかもしれません。
小松易『たった1分で人性が変わる片づけの習慣』電子書籍版(KADOKAWA/中経出版、2017年)
大学時代にアイルランドに留学していた小林易は、3カ月の留学生活を終えて、帰国の荷づくりをはじめる。
荷づくりのために、ベッドの下に収納していたトランクを出したとき、小林易は衝撃をうける。「トランクひとつ」で3カ月生活できたこと、またモノの少ない生活のほうが充実していたことに、である。
「トランクひとつ分の幸せ」である。
「トランクひとつ分」といえば、ぼくの海外暮らしも「トランクひとつ分」であったともいえる。だから、このことばにひかれてのであろう。
ニュージーランドを去るときも、西アフリカのシエラレオネを去るときも、東ティモールを去るときも、いずれも「トランクひとつ分」(正確には、大きなバックパックひとつ分+手荷物)であった。
シエラレオネと東ティモールは、住んでいるあいだ、日本と行き来しながらモノの移動もあったけれど、さいしょとさいごの「INとOUT」ともに、「トランクひとつ分」であった。
そして、小林易が感じたように、そんなモノの少ない生活は充実していた。
ここ香港ではだいぶモノが増えてしまった。「トランクひとつ分」とまではいかないだろうけれど、いまいちど、「モノ」を少なくしているところだ。それも、ただの「モノ」のことではなく、それ以上に、もっと内面の整理整頓もふくめて、ぼくはいろいろと手放している。
ところで、「片づけられる自分」になるために、「必要最小限の荷物だけ」を手にした旅行を、小林易はすすめている。その理由のひとつは、旅行の荷づくりが、片づけにともなう、「捨てる基準」を決めるトレーニングとなるからである。
この方法については、ぼくも共感するところがある。旅をかさねてきたぼくの思うところである。
前述のように「モノが少ない対決」には意味がないのだけれど、ぼくたちのしあわせには、思っている以上に「モノ」が必要ではないことを、ぼくは思う。