小説家のサマセット・モーム(1874-1965)のことが突如気になって、Wikipediaの「サマセット・モーム」をひらく。
なぜ突然「サマセット・モーム」が気になったかは数日前のことにもかかわらずもう忘れてしまった。作家の原田マハの本を少し読み始めていて、ゴッホやモネの「芸術」に少しふれていたときであったようにも思うのだけれど、どのようにつながっていったのか思い出せない。ゴッホとゴーギャンのつながり、そこから、ゴーギャンとサマセット・モームの作品『月と六ペンス』につながったのかもしれない。
なにはともあれ、サマセット・モームが気になる(そんなふうに突然に「気になる」ことって、ありませんか?)。
こんなふうに「突然に気になること」を、ぼくは大切にする。そこにかすかに見える「糸」を導きとしながら、その先になにが待っているのかわからないけれど、その糸をつたってゆく。
Wikipediaの「サマセット・モーム」(日本語版)を読んでいたら、いくつか目にとまったことがあった。そのひとつが、つぎのようなエピソードである。
・アイデアが出ない時は、ひたすら自分の名前を繰り返しタイプライターで打ち続けていた。(Wikipedia「サマセット・モーム」)
「アイデアが出ない時」の対処法はこれまで関心をもってきたから、「あの」サマセット・モームの対処法に目がとまったのであった。このエピソードの出典が定かではないので、実際に、誰が、どこで、どのように語ったのかはよくわからない。
でも、サマセット・モームであれ、ほかの誰かであれ、「ひたすら自分の名前を繰り返しタイプライターで打ち続ける」という方法に、ぼくは興味をもつ。
芸術家は、その「作品」にこそ味わうべきものがある。けれども、ぼくは、その作品のつくられ方にどうしても関心がいってしまうのだ。
「作品」を楽しまないわけではない。作品は作品で楽しみながら、でも、そこで関心がおさまらないのである。
ぼくは、Mason Currey著『Daily Rituals: How Great Minds Make Time, Find Inspiration, and Get to Work.』(Picador, 2013)をひらいて、サマセット・モームをさがす。
ベートーベン、フロイト、アインシュタイン、ピカソなどの偉大な人たち(great minds)がどのように時間をつくり、インスピレーションを得て、仕事にとりかかっていたのか、それら「日々の儀式 daily rituals」を集成した本である。
その本をひらいて、目次に目をとおしていたら、気になっている「Somerset Maugham」がやはりある。
サマセット・モームの伝記(Jeffrey Meyers著)によりながら、Mason Curreyはモームの「日々の儀式」について書いている。
その核心的なところでは、モームにとっては、書くことは、仕事(vocation)というよりも「中毒 addiction」のようなものであったようだ。
ほぼ92年の人生で78冊の本を刊行したモームは、朝、3時間から4時間を書くことにあて、1000字から1500字書くことを自分に課す。
ただし、机にすわる前から湯船につかりながら最初に書きたい2つの文章を考える。そうしていったん仕事がはじまると、一心不乱に書いたようだ。さらに景色を見ながら書くことはできないから、机はいつもなにもない壁に面していたという。
こんなふうに、モームの「日々の儀式」は書かれている。
こんな仕事の仕方を「方法論」の観点から、いくつかをとりあげることもできる。また、こんな描写から、サマセット・モームという人を想像して、楽しむこともできる。
そんなふうに思いながら、Wikipediaの「サマセット・モーム」の英語版(W. Somerset Maugham)を読んでいたら、モームが、ここ香港に来たことがあること、そのことについて書いた文章があるようなことがわかる。
モームは、この香港をどのように「見た」のだろう。このことが気になってくる。
突如気になりはじめた「サマセット・モーム」は、ぼくを、どこに連れていってくれるのだろうかと、ぼくは、突如現れたかすかに見える「糸」をたどってゆく。