「アメリカ」について、学んでいる。より正確には、国や社会としてのいわゆる「アメリカ」だけでなく、「アメリカなるもの」も含めて、である。
「アメリカ」とは、だれもが知りながら、実はあまりよくわかっていないところだと、ぼくは思う。日々、ドラマや映画やニュースなどでアメリカに触れて、いろいろなトピックに渡って「知っている」けれど、でも「わかっていない」。
ぼくも「アメリカ」を知りながら、その本質について、やはりあまりわかっていないのだと思う。もちろん、なにをもって「アメリカがわかった」と言えるのか、という問題もあるけれど、その深みにたどりつくところまでに、ぼくはまだいっていない。
そんなふうに感じながら、「アメリカ」について、また「アメリカなるもの」について、学ぶ。
「アメリカ」に正面からぶつかってゆく本で、ぼくの手元(手元と言っても電子書籍)にある本(日本語の書籍)を刊行年月日の新しい順で挙げると、つぎのとおりである。
● 橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)
● 吉見俊哉『トランプのアメリカに住む』(岩波新書、2018年)
● 西谷修『アメリカ 異形の制度空間』(講談社選書メチエ、2016年)
● 内田樹『街場のアメリカ論』(文春文庫、2010年)※単行本は2005年
いずれの著者も、「アメリカの専門家」ではない。でも、それぞれの切り口において、アメリカをきりとっていて、さまざまな視点を得ることができる。
最初に挙げた本、橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)。
社会学者の大澤真幸は、その「まえがき」で、アメリカというものの「極端な両義性」に触れることから、「アメリカ」について語り始めている。
アメリカというものには、極端な両義性がある。
まず、アメリカは、圧倒的な世界標準である。世界中の人が、…少なくとも、アメリカ的な価値観がデフォルトの標準であるという前提を、受け入れている。仮に自分は賛同できないとしても、アメリカに代表される価値観の方が標準とされていることを、すべての人が知っているのだ。…
ならば、アメリカ社会は、地球上のさまざまな国や社会の平均値に近いのか、というと、そうではない。逆である。アメリカは、他に似た社会を見出せないまったくの例外なのだ。…
標準なのに例外。その二重性によって、アメリカは「現代」を代表している。橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)
「現代」という時代を理解するためには、「アメリカ」を理解すること。<標準なのに例外の二重性>によって特徴づけられる「アメリカ」をである。
このことに加えて、大澤真幸は、日本のアメリカにたいする関係性から見て、「日本人ほどアメリカを理解できていない国民はほかにない」と書いている。「アメリカへの愛着の大きさとアメリカへの無理解の程度の落差」(前掲書)が見られる、と。
こうして、「アメリカを知ること」は、第一に、現代社会の全般を理解することであり、そして第二に、現代日本を知ることである、と位置づけている。
この二つは、冒頭に書いた「アメリカを知っているけれどわかっていない」というぼくの感覚と交差してくる。
そして、「現代」と「(現代)日本」を知ることで、それは、ぼくのなかの「世界観」、あるいはぼくが理解できない「世界観」に光を射してくれるように直感するのである。
「アメリカを知ること」はまた、この世界で生きる、ということを考えてゆくときにも、避けて通ることはできないようにも感じる。
だから、先に読んだ内田樹『街場のアメリカ論』を筆頭にして、この四冊をほぼ同時並行的に読みながら、「アメリカ」あるいは「アメリカなるもの」を、ぼくは理解しようとしている。
それにしても、世界のいろいろな「扉」をひらいてゆくような気持ちにもなり、これまた、とてもスリリングである。