「脳と心」、心身論のこと。- 「唯脳論」(養老孟司)の立場からの、シンプルで、きわめてスリリングな見方。 / by Jun Nakajima

ここのところ、養老孟司の二つの著作、それら著作の「あいだ」に20年ほどの時間が介している二つの著作、『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998年)と『遺言。』(新潮新書、2017年)を導きとしながら、「意識と感覚(の段差)」「脳の世界」の浸潤としてみる歴史「不死」ということについてブログに書いた。

これまで読んできたこれらの本(養老孟司のほかの本を含め)、読み返せば読み返すほどに、養老孟司の言わんとすることがわかっていなかったことを思う。でも、なによりも、養老孟司という先達の視点・視野・視界、あるいはその試みと提案に触発され、スリリングな気持ちのままに、その気持ちの一部をブログにのせている。


「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場」である「唯脳論」(「唯脳論」は養老孟司が思いついた言葉ではなく、編集者が思いついた言葉だが、養老孟司の書くように、絶妙の言い方でありながら誤解をまねく言い方でもある。参照:『唯脳論』ちくま学芸文庫、1998年)。

この著書『唯脳論』は、本のはじめから、一般的に考えられている「難問」をとりあげ、「唯脳論」の立場から明晰に論じている。

その「難問」とは、心身論・心身問題である。つまり、「心は脳から生じるか」という問題である。

ある人たち(以前の「ぼく」も含め)は、脳(という物質)から心が出てくる、と考えたうえで、たとえば、「そんなことはない」と思ったりする。

「心」はそのように語るだけでは語りつくせないものであると思ったりする。

「唯脳論」は、このように語られることもある心身論に、つぎのように明晰な説明を加える。


 唯脳論は、この素朴な問題点について、それなりの解答を与える。脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係の問題に帰着する、ということである。

養老孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998年)


心身論は、「脳と心の関係=構造と機能の関係」であると、養老孟司は唯脳論の立場から語る。

とても明快だが、養老孟司が挙げる例にしたがい、もう少し見ておこう。「脳という物質を分解していっても、どこにも「心」などは見つからないではないか」と感じている人にとっては、「構造と機能の関係」と言われただけでは、その感覚と思考は氷解しないだろうから。

養老孟司は「心臓」の例を挙げている。心臓が止まると、循環は止まる。これはだれでもわかる。

けれども、心臓血管系を分解してゆくと、どこに「循環」が出てくるのか。どこにも「循環」というものは出てこない。心臓は「物」であり、循環は「機能」だからである。

脳と心の関係は、この例のように心臓と循環、あるいは腎臓と排泄、肺と呼吸といった関係と似たものであると、養老孟司は指摘している。

「脳から心は出てこない」という考え方は、唯脳論の立場からすれば、「機能は構造から出てこない」という考え方となってしまうのである。


「でも、心は…」と、口をはさみたくなるかもしれない。心臓と循環の関係はわかるけれど、「心はちがうんじゃないか」、と。

養老孟司は、そこに(まさに、そこに)、<心の特別あつかい>という、偏った考え方を見て取っている。

 心が脳の機能ではないと思うのは、心を特別扱いするからである。つまり、心というのは、なにか特殊なものである。そういう考えがあるからである。たしかに、心には、ある特殊性がある。それを、われわれは「意識」と呼ぶ。意識には、「自分で自分のことを考える」というおかしさがある。これは、もちろん、他の臓器ではあり得ない機能である。この機能的特性のために、ヒトは、意識つまり心をいつでも特別扱いしてきたのである。…

養老孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998年)


なお、ヒトが、なぜ、「構造」と「機能」(たとえば、脳と心)というように「分けて考える」のかについて、それは脳がそのように構築されているからだと、養老孟司は指摘している(『唯脳論』ではその詳細も書かれている)。


それにしても、「唯脳論」の立場から語られる心身論は、きわめて明快である。もちろん、「心」そのものが明快であるというわけではない。「意識」というものの特殊性から、ヒトは、心という機能の「多様性」を知っている。

なお、心身論は「脳と身体の関係」だけでなく、「脳以外の身体と脳の関係」があることも、養老孟司は明示的に書いている。「脳と身体」は明瞭に分離できないのだ、と。身体には末梢神経が張りめぐらされ、かつ、脳と神経は連続する構造であるからである。この意味において、唯脳論は<身体一元論>であるという。


この心身論(あるいは、身体一元論としての唯脳論)を踏まえたうえで、『唯脳論』は「死」の問題にはいってゆくのだが、その冒頭の言葉をとりあげるだけで、ここでとめておこうと思う。

養老孟司は語る。「…死体があるからこそ、ヒトは素朴に、身体と魂の分離を信じたのであろう」、と。

きわめて、スリリングである。

「正しい/正しくない」というような意見や判断はさておき(そんな判断はぼくにはまったくできないが)、とにもかくにも、思考の深いところから触発される、スリリングな論考である。

以前も「読んだ」のだろうけれども、それほど「理解」できていなくて(言葉や論の表面だけをおっていて)、でも、いまのぼくは、言葉や論の深いところに降りてゆくことができるようだ。